
■見出し・かつては小さな商店がびっしりと軒を連ねていた青山通り
・戦後の復興を経て街の質が変化
・2丁目から生まれる“街づくり型”エコプロジェクト
・時代の流れに流されず、独自路線を歩む“2丁目カルチャー”
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青山通りと六本木通りに挟まれ、渋谷や青山、表参道、六本木と、東京有数のハイセンスな街にアクセスする「青学-渋谷二丁目エリア」。渋谷駅からは、明治通り、さらに青山通りと、二つの大きな通りを隔てていることもあって、駅前の喧騒とは無縁のエリアだ。青山学院大学を擁する落ち着いた街並みの中に独自のカルチャーが息づくこのエリアの歴史をひもといた。


六本木通りへ合流する手前の青山通りの様子。左手に見えるのがクロスタワー。
渋谷駅から国道246号を青山方面へ。渋谷クロスタワーを起点に分岐する青山通りと六本木通りに挟まれた青山学院大学までの三角形のエリアが渋谷2丁目だ。落ち着いた街並みのなか、若者の街・渋谷と、大人の街・青山のカルチャーが混在する独自の空気があふれているこの地域。仮に青山通りと六本木通りを河川に例えれば、このエリアは、街並みの移り変わりの速い渋谷や青山、さらに六本木などから運ばれてきたカルチャーが堆積する三角州のようなエリアといえるかもしれない。このエリアを「青学-渋谷二丁目エリア」と名付けて散策してみよう。
子どもたちの遊び場だった頃

昭和35年1月 青山通り。渋谷駅を背に青山車庫前へ向かって都電が走っている。巴川享則著『懐かしの電車と汽車 渋谷とその周辺』(株式会社多摩川新聞社刊)より
現在はセンスの良いショップや飲食店が軒を連ねる青山通りは、江戸時代、神奈川県西部の大山への参詣路として整備され、「大山街道」と呼ばれていた。1911(明治44)年には、東京市電(後の東京都電)の渋谷―青山車庫間が開通。青山車庫とは、現在のこどもの城と国連大学の場所にあった、市電の車庫のことだ。さらに1938(昭和13)年には、渋谷―表参道間に地下鉄も開通した。当時の青山通りは、どのような街並みが広がっていたのか。戦前から戦後にかけてのこの地域の光景を活写した『東京青山 1940 陽が落ちても朝はくる』の著者・田口道子さんによれば、青山通りは市電がすれ違う両脇に車一台が通れるほどの狭い道だったそうだ。そして、道の両側には、渋谷から青山1丁目のあたりまで、小さな商店がびっしりと軒を連ねていたという。「食料品はもちろん、下駄に煙草、呉服、ラジオ、文房具など、専門店が無数にあって、当座の生活に必要な物は何でも揃いました。子どもの頃は、よくお使いに走らされていましたね。車道には車がほとんど走っていなかったから、男の子たちが市電のレールの上に折れ釘を置き、電車の重みでぺったんこに潰して遊んでいるのを見物していた記憶もあります(笑)」


『コンサイス 東京都35区区分地図帳 戦災消失区域表示』(日地出版株式会社刊)より 金王町と書かれた部分が現在の渋谷2丁目・3丁目と重なる。ピンクの部分は全て戦災で焼失した。© ゼンリン地図の資料館
そんなのどかな光景の中にも、しだいに戦争の気配が色濃く漂うようになる。田口さんは練兵場のあった現在の代々木公園に向けて、青山通りを行進する兵隊の隊列をよく見かけたという。「ザック、ザックと、規則正しい靴音を響かせて、銃や背嚢を背負った兵隊さんが行進する光景には当時ならではの迫力がありました。その音が聞こえてくると、『兵隊さんだ!』と、表に飛び出して姿が見えなくなるまで見送ったものです」。そして、田口さんが小学校4年生だった1941(昭和16)年、太平洋戦争に突入。1945(昭和20)年5月25日、渋谷・青山一帯は大空襲(山の手大空襲)に襲われ、一夜にして焼け野原となった。青山学院大学(当時は青山学院工業専門学校)の7割の建物が焼失し、宮益坂から青山1丁目まで道路の両側には、犠牲者の焼死体がごろごろ転がっていたと記録されている。田口さんが終戦から3ヵ月後に疎開先から戻ると、自宅のあった通りの住宅街だけはかろうじて焼け残っていたものの、青山の街は廃墟と化し、バラックが立ちはじめていたという。
東京オリンピックを機に街が一変

田口道子さん
戦後の復興が続き、青山通りの道沿いにはポツポツと商店が戻ってきた。このエリアの光景を一変させたのが、1964(昭和39)年の東京オリンピック。渋谷全体が今日の北京を思わせる勢いで、急ピッチの開発が進み、青山通りの道幅も以前の倍近い40メートルに拡張され、六本木通りも整備された。その後、自動車社会の到来により、1968(昭和43)年に路面電車は廃止。しだいに商店は姿を消し、かつての生活感あふれる光景とは程遠い、東京でも有数のファッショナブルなエリアへと変貌する――。それでも、今でも田口さんが青山通り周辺を歩くと、えもいわれぬ懐かしさに駆られるという。「『ここに煙草屋があったな』『このあたりの横町でいじめっ子に出くわして、通せんぼをされたっけ』などと、街並みは変わっても、かつて駆け回った道があるかぎり記憶はよみがえります」。かつての生活感あふれる光景がまるで嘘のように、現在もこのエリアは渋谷、青山、六本木などのカルチャーの影響を受けながら進化を続けている。

片側4車線という広幅員道路の青山通り。

田口道子さん
1932年、芝区(現在の港区)生まれ。表参道駅そばの港区立青南小学校に通う。1954年、慶應義塾大学文学部卒業後、出版社に勤務し、書籍や雑誌の編集に携わる。結婚後、フリーの編集者、ライターとして活動。著書に、自らの日記をもとに戦前から戦中・戦後にかけての青山の様子を綴った『東京青山 1940 陽が落ちても朝はくる』。『昭和戦前 東京 街と暮らし』(仮題)を刊行予定。