
■見出し・明治・大正時代はモダンな洋館が建ち並んでいた
・邸宅街としての静けさを保つ一方、再開発も進行中
・時代の変遷を反映し続けてきた洋館・内田邸
・48年前に来日した修道士兼アーティスト
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南平台エリアを歩く楽しさは、「静」と「動」のギャップを感じることにあるかもしれない。南平台町の外縁部、つまり国道246号や旧山手通りに面した区域は、今後も開発が予定される賑やかなエリアだ。しかし、一歩、中に足を踏み入れると、大邸宅に交じって教会や大使館が建ち、まるで異国に紛れ込んだような錯覚すら覚える。この不思議な街並みは、どのような経緯で形成されたのか。

南平坂から日本キリスト教団聖ケ丘教会を望む
教会や大使館が点在し、どこか異国情緒すら漂わせる南平台町。渋谷の他のエリアとは雰囲気の異なる現在の街並みは、いつ頃から形成されたのか。江戸時代、南平台は江戸の外れに位置し、武家屋敷が建つほかは、森林や田畑の広がるのどかな景色が広がっていた。明治・大正期には、もともと南向きの高台で、かつては目黒・品川方面を見渡せたという眺望の良さが人々の目に留まり、しだいに松涛と並ぶ邸宅街として成長していく。現在は高層ビルが林立し、なかなか遠くまで眺めることはできないが、旧山手通りを挟んですぐの場所にある西郷山公園は、晴天時は富士山を望み、かつての眺望の良さを今に伝える。なお、西郷山公園は、もともと明治期の官僚・西郷従道が、兄・西郷隆盛のために邸宅を建てた場所だ。この屋敷は、現在は博物館明治村(愛知県犬山市)に移築され、庭園が西郷山公園として公開されている。
政財界の大物が住んだ街

1928年 昭和天皇即位のお祝いパレードに集まった南平台の地域住民 中央には小松伯爵。© 岩井田正博
1889(明治22)年、東京市が再編され、渋谷村が誕生する。南平台という地名は、この頃には既に使われていたようだ。だが、「南平台町」として正式に制定されるのは、1932(昭和7)年のことである。明治も半ばを過ぎると、邸宅街としての地位が高まり、政治家や財界人、外交官、文化人が好んで住まいを構えるようになる。その一人が外交官の内田定槌。1910(明治43)年、内田が南平台に建てた洋館は、さまざまな借主を経た後、現在は重要文化財として横浜の山手イタリア山庭園に移築保存されている。また現在、東京急行電鉄が本社を構える場所には、太平洋戦争終戦時に陸軍大臣を務めた阿南惟幾氏の邸宅があったほか、1932(昭和7)年には日本で唯一の鳥類専門研究所である山階鳥類研究所が設立された(1988年に移転)。
だが、瀟洒な洋館が建ち並ぶモダンな街並みは、無残にも戦災により大半が焼失してしまう。現在、南平台町会の町会長を務める岩井田正博さんは、こう残念がる。「敗戦後は、焼け残った洋館がわずかに建っていた程度。一緒に写真などの記録の多くが失われたため、南平台の歴史には分からないことが多いんです」

三木武夫記念館
戦後は邸宅の住人も大きく入れ替わったそうだ。1940年代には後に首相を務める岸信介氏が移り住んだ。岩井田さんによれば、岸氏はとても気さくな人物で、祭りのときには自邸の門を開放して地域の子どもたちを招き入れたそうだ。戦後、再建された南平台町会の初代町会長も務めたという。1960(昭和35)年6月には日米安保条約に反対する学生や労働者の大群が岸邸を目指し、南平台周辺の道路を埋め尽くした。あまりにも大勢が押し寄せたため、「道路が洗濯板のように、ぐにゃぐにゃになってしまった」(岩井田さん)という。岸氏は晩年、御殿場に移転するが、1960年代には、やはり後に首相となる三木武夫氏が引っ越してきた。現在、三木邸は、三木武夫記念館として公開されており、毎年、天皇誕生日の12月23日には地域住民に解放しての餅つきが行われる。岸氏も三木氏も地域の人々とのかかわりを大切にしたが、岩井田さんいわく、そのように誰もが気さくに付き合う関係を大切にするのが、明治期からの南平台の伝統なのだそうだ。
60年代以降、教会や大使館が登場

旧山手通りから南平台を望む。画面右より、改修工事中のマレーシア大使館、聖ドミニコ・カトリック渋谷教会、(株)メンズビギ
教会や大使館は、いつ頃から現れたのか。三木武夫記念館に隣接する聖ドミニコ・カトリック渋谷教会の建物が完成したのは1959(昭和34)年。この地域に建てられた初の教会だった。修道士の1人であるガストン・プティさんが来日した1961(昭和36)年当時は、「周りは邸宅以外はほとんど何もなかった」という。もともと大邸宅が多く、まとまった土地の確保が可能だったことから、カトリック渋谷教会に続き、中渋谷教会、イエスキリスト教会、聖ヶ丘教会など、教会が次々に登場。同様に土地取得の事情や、渋谷駅から徒歩10分という交通の利便性もあり、マレーシアやアラブ首長国連邦などの大使館も建てられた。町内には言語文化研究所附属・東京日本語学校もあるため、外国人の姿を自然に見かけるのも、このエリアの特徴といえる。
現在は高級住宅地として静けさを保つ一方、国道246号や旧山手通りに面する一部の地域は再開発地域に指定されている。「敗戦直後から約60年ぶりに開発の波が押し寄せてきた」という岩井田さんの言葉どおり、今秋に青葉台三丁目に地上33階建ての高層ビル、中央環状新宿線・西新宿JCT〜大橋JCTが完成し、2011年に神泉町交差点の角の空き地に地上22階建てのオフィスビルを建設する「南平台町計画(仮称)」、2013年には「大橋地区再開発ビル(仮称)」の建設が計画されるなど、いくつものプロジェクトが進行中だ。今後、南平台の「動」の部分は、加速度的に様変わりしそうな雰囲気である。

神泉町の交差点から南平台を望む。角の空き地が工事中の「南平台町計画(仮称)」

岩井田正博さん
昭和24年生まれ。南平台町会・町会長。4代前から南平台町に住む。祖父は豆腐店を営み、父の代からタイヤ販売店を経営。現在はリタイアして、南平台町の歴史を調査している。