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Shibuya of future talks about the KEY PERSON key person

Long interview of [key personnel] to be active mainly in the Shibuya. Place a "Shibuya of appeal" through their words.

profile

1951, born in Shibuya of Yukari Kobo Daishi bathhouse "Kobo hot water". Kiyoshikeoka kindergarten, Omukai elementary school, studied at the Shoto junior high school, spend the impressionable childhood at the local and Shibuya. Nihon University College of Art, after graduating from the Tokyo photo specialty School, through a camera assistant, a job to edit production with a focus on commercial photography. Turned-free the father passed away at 34 years of age the opportunity. Built a building there was Shinsen Station of the "Kobo hot water", run by the cafe, "Cafe de la Fontaine" on the first floor. Photographic Society of Japan member. Currently, Shibuya-ku, Planning Department Cultural Promotion Division culture Research Center Owada Cosmo Planetarium Shibuya of planning and public relations, involved also in the work of Shibuya as Shibuya-ku, local materials digitized save promote preparation room Office.

ワシントンハイツに国道246号など、東京オリンピックで何もかもが変わった。

--長年、渋谷を眺めてきて劇的に変わったと感じたのは、いつ頃ですか?

東京オリンピック開催に向け、街の美化に取り組む渋谷住民たち(1964年) 写真提供:佐藤豊

渋谷は東京オリンピックで何もかもが変わりました。私が30年代の写真を一番集めているのも、大きなイベントをきっかけに都市が変貌を遂げた、ある意味、渋谷はその後の「日本の街づくり」の見本みたいな街だから。まず国道246号や、公園通りなどのインフラが整い、ワシントンハイツが返ってきて、体育館、総合庁舎、選手村などオリンピックの関連施設ができ、それで原宿という街が一気に活性化し、今の「原宿文化」が生まれていきました。当時トイレがどんどん水洗になって、渋谷住民、自分も含めて「文化生活だ!」なんて盛り上がり。私は中学生でボーイスカウトをしていたので、オリンピック会期中は朝晩に各国の旗を揚げ下げしていました。街中を掃除して、きれいにすることが国の誇りで、国をあげてのオリンピック。お母さんたちは割烹着を着て襷(たすき)して、「世界に誇れる日本、恥ずかしくない日本を」広く世界に知ってもらいたいみたいな風潮がありました(笑)。外国人に道に聞かれても良いように英語を覚えたりして。当時の日本人は本当に純朴で純粋だったと今思います。

--日ごろ、どんな視点で「渋谷の街」の写真を撮っていますか?

大晦日、スクランブル交差点でカウントダウンを待つ人びと(2010年12月31日) 写真提供:佐藤豊

誰も知らない、地域の人や行政の人たちがあまり行かないような、イベントや場所など探して、時にはファインダーも見ずに結構ファッジーに撮ったりもしています。たとえば、大晦日の渋谷駅前のカウントダウン。大晦日には毎年スクランブル交差点、ハチ公広場には、たくさんの外国人や若者たちが集まります。待ち受ける機動隊が「本日渋谷駅前ではカウントダウンはありません、カウントダウンはありません・・・」と叫んでいるのに、なぜかどんどん人が集まってきて、カウントダウンの時間になると外国人の女の子などは機動隊にも抱きついたりして「ハッピーニューイヤー」です。日本人、外国人入り乱れてケータイで写真を撮り合ったり、結構大混乱になります。なかなか面白い光景ですよ。また年が明けてお正月には109の福袋を買い求める人たちの大行列の様子をなども毎年欠かさず撮っています。お金になるかならないかは関係なく、自分が面白いと思う、渋谷ならではのものを探しては撮影して残していますね。もちろんこればっかりではないですよ。他にもキチンと記録として必要と思う物は撮影して残していますよ。

--今まで撮影した中で鮮烈な記憶に残る写真は?

学生のとき、新宿と同じく渋谷でも過激な学生運動による事件があったんです。ガソリンを入れた6本入りのジュース瓶を下げた学生が押し寄せて、それを投げる。渋谷は火炎瓶だらけで火が上がりすごかったです。当時、現場の様子を無我夢中で撮影しました。後日その騒乱で警備の警察官に不幸があって、警察の人がうちにも色々聞きにきました。うちの父が「息子がたくさん写真撮っていた」と言ってしまって(笑)。父から協力してあげなさいと言われ提出したら、それが返ってこなくて。もし、今も持っていたら大した写真ではなかったかもしれませんが、持っていかれちゃっただけに悔しい写真でしたね。気質としては商業写真よりも報道写真の方が向いているんでしょうかね。

--写真を残し、デジタル保存する意味は?

どんなくだらない写真でも、50年も寝かせておけば価値が出ますよ、全部とは言いませんが。もちろん当たり外れはあって、出来れば誰も撮らないものがいいですが。何かイベントなどがあると、皆さんそこへドッと繰り出すじゃないですか?そのときにイベントそのものではなく、ドッと繰り出している人を撮れば良い(笑)。役所に保存されている写真の中でも、取材のついでに撮った街の写真の方がはるかに良いものが多いですね。おそらく担当者の趣味で撮ったものなんでしょうが、どこかにそのときの空気感みたいなものを感じることが出来ます。よくテレビや雑誌などのメディアで紹介されるロープウェイ「ひばり号」の写真がありますが、キチンと映っている物は少なくて、現在残っている中で赤石定次さんが撮った「あの1枚」が一番良く撮れているんですよ。当時、誰もケーブルカーを撮ろうとは考えなかったんですね。毎日見ていていつもある物だから、あんなに短い期間で無くなるなんて誰も思わなかったんでしょう。少々無駄でもまずは撮ることが大切。そんな経緯もあって、多くの方に渋谷の写真を撮影してもらいたいと考え、4年ほど前から渋谷区商工観光課と一緒に「渋谷大好き」観光写真コンテストという写真公募をスタートさせました。渋谷が好きな人なら誰でも応募出来ます。当初、150作品前後だった応募作品数も、昨年は約550作品に。また小学生や青少年の部門を設けるなど、若い人の応募が徐々に増えています。できれば、いつかこの中から渋谷生まれの写真家が育ってくれればうれしいですね。

「渋谷ヒカリエ」も同じ。カリスマ性、シンボル的なものを中心に盛り上がっていければ良い。

--駅周辺で再開発が始まっていますが、佐藤さんが「渋谷に残したいもの」とは?

50年代、日本で一番高い建物だったという「東急百貨店西館」 写真提供:佐藤豊

渋谷に生まれた以上、これは変えたくないと思うものはないですね。昔からハチ公はあっちに向きこっちに向き、広場にあった噴水はなくなり…、渋谷駅は常に変わり続けています。僕の思い出の渋谷はとっくの昔になくなっていますし、どんどん変わっちゃうのが渋谷。頑固に「渋谷はこうじゃなきゃいけない!」という考えは全くありませんし、ノスタルジックにならずに、何でも受け止めて次を考えれば良いと思います。写真も一緒で、フィルムは色が良いし好きですが、デジタルの方が断然便利じゃないですか。50年代に11階建ての白亜の東急百貨店西館がオープンしたときは、谷底から巨大な建物がまっすぐ建っている姿にとにかく驚きました。当時はそんな高い建物なんて何処にもありませんでしたし、子どもながらに何とも言えないカリスマ性を感じたのを覚えています。今、建設している「渋谷ヒカリエ」も同じじゃないですかね。何かそういうシンボル的なものを中心に盛り上がっていければ良いと思います。

--思い描いている「渋谷の未来像」は?

写真提供:佐藤豊

もうちょっと優しい街づくりをして欲しいです。すべてコンビニばかりじゃなくて、バラエティに富んだものが商売しやすい環境にしてあげられればなと。花街後のラブホテル街の発展を見ても、本来あるべき場所に新たに全く別の物を作ろうとしても上手くいかないんですよ。だって百軒店はもともと怪しい感じがするところなんですから、少々怪しい雰囲気のあった方が面白い。宇田川を暗渠した宇田川町もそうですが、きれいに整備しようと考えている人はたくさんいますが歴史的にはそれほど上手くいってはいませんよね。「春の小川」があったといっても上手く繋がってないですよね。渋谷は谷底から何かを発信する力だけは何処にも負けません、だから常に発信できるものが育っていく環境を整えてあげることが大切だと思います。写真集なんかもそう、活用して巣立ってくれれば良いんですよ。音楽にたとえれば昔、デビューしていくアーティストが渋谷eggman(エッグマン)から始まって、ぐるーと回って渋谷公会堂(現、渋谷C.C.Lemonホール)に戻ってきて、そこで渋谷は卒業、後は武道館や東京ドームです。ただ、渋谷デビューの音楽というのであれば、出来れば中央線やJRではなくて、井の頭線や東横線で来て音楽を渋谷に広めて行って欲しいです。何となく言葉で表現するのは難しいのですが、何か雰囲気が違う気がします。ちょっと、山の手の洒落ている部分、何かそういう匂いや感じがあるのが渋谷らしいところではないかな?と思いますが。私の勝手な妄想ですが(笑)。

--写真集「渋谷の記憶 第四集」刊行のご予定は?

今年3月中には写真集「渋谷の記憶IV」を刊行します。前回の第三集からだんだん建物、風景ばかりではなく、人が入ったもの、時代の匂いがする世相的なものを取り入れて来ました。第四集ではその部分をもっと増やします。たとえば、第三集で取り上げた『昭和37年神宮橋と鯉のぼり』でワシントンハイツの子どもが映っている写真では、ハイツの子だけが革靴を履いていますよね。また金魚売りが出ているこの写真がどこかといえば・・・、これは東シネ(渋東シネタワー)の裏、そんな感じの物を。昔、東横屋上には観覧車があって、金魚すくいがあって、毎日、ねえやと一緒に遊びに行っていた事をよく覚えています。あそこの場所からは渋谷の街はもちろん、ワシントンハイツも、新宿も、角筈(つのはず)ガスタンクもすべてを見えていました。古い写真を整理しながら、時々自分の記憶の断片を整理して残しているような感覚になります、歳なのでしょうか?なかなか文字だけでは伝わりにくいことがありますが、ビジュアルは大人から子供まで素直に受け止めてもらえる。動画だと見入ってしまいますが、写真だと話が広げられるような気がしています。

--そのほか、今後の夢や目標はありますか?

外国の高級住宅街の雰囲気を漂わせる「ワシントンハイツ」(現、代々木公園) 写真提供:佐藤豊

「ワシントンハイツ」だけの写真集を一冊作りたいと思っています。当時ワシントンハイツの中をフェンスの網から覗きこんで見ていると、中にいる人たちの格好が違う。たとえば、僕たちが格好だけで西部劇ごっこをしているとき、向こうの子どもたちはブーツ履いて、テンガローハットを被っていたし。野球だって、メジャーリーガーと同じユニフォームを着ているし。大きな外車がたくさんあって、ハンバーガー、スーパーマーケット、何でもある、おおきなプールに緑の芝生、とにかくハイツは映画で見るような夢のような世界に見えました。戦後、闇市などがあったけど、渋谷の街の治安が比較的に良かったのは、おそらくワシントンハイツがあったからでしょう。手元にある写真の中にはハイツの案内表示にシャレたデザインの英語の案内版があったり、外国人の子供たちの楽しそうな様子を捉えた写真があったり、当時の様子がうかがえる写真が色々と残っているので、いつか機会があればまとめてみたいです。まあ、制作費をどうするかは一番の課題ですが・・・。

「渋谷の記憶IV 写真で見る今と昔」

「渋谷の記憶IV 写真で見る今と昔」

編集/発行:
渋谷区教育委員会
発売:
2011年3月末ごろ予定
価格:
1,000円

※渋谷区役所、白根記念渋谷区郷土博物館、クリエーションスクエアしぶや(渋谷マークシティ内)などでお求めになれます。

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