History

85年の東横ターミナルデパート物語

全ては、「ターミナル食堂」から始まった。

「東横食堂」を描いたイラスト。白木正光編著『大東京うまいもの食べある記』(丸ノ内出版社、昭昭和8年4月30日発行)より

1923(大正12)年の関東大震災は、住宅が密集した都心部に甚大な被害をもたらした。その頃、実業家・渋沢栄一らが理想的な住宅地として、田園調布や洗足などの開発を進めていたため、都心から被害が軽微であった郊外へ移り住む人々が増加。震災復興が進む中、東京横浜電鉄(現、東急)は1927(昭和2)年8月28日、渋谷−丸子多摩川間 の9.1キロ を開通し、渋谷と神奈川間を結ぶ全長約23.9キロの新路線「東横線」を誕生させる。その起終点となる「東横線渋谷駅」の開業は、「都心(東)で働き、郊外(西)に住む」という生活スタイルを加速させ、渋谷がターミナル駅として成長していく、はじめの一歩となった。

その年の暮れの12月25日、東横線渋谷駅2階に165平方メートルの広さの「東横食堂」が開業する。メニューは、メンチボールやビフテキ、タンシチュー、オムレツなどの一品に、ご飯またはパンにコーヒーをセットにして30銭均一。洋食中心のハイカラなメニューがそろう。開業初日の来客数は180人、売上高は108円50銭だった。この小さな食堂の誕生が、後の東横百貨店へとつながる。

2年後の1929(昭和4)年5月、食堂の広さを300平方メートルに増床。1931(昭和6)年4月5日には、渋谷駅1階に「渋谷マーケット」を開業し、瓶缶詰や惣菜、その他の食品の販売も開始する。さらに東京横浜電鉄と目黒蒲田電鉄の専務を兼務していた五島慶太は、沿線に住む人々の暮らしの利便性を高めるため、「便利よく、良品廉価、誠実第一」をモットーに1932(昭和7)年に東横百貨店(東横店東館)の建設を決意する。当時デパートと言えば、呉服商をルーツとする「松坂屋」「三越」「大丸」「白木屋」「松屋」「高島屋」が主流で、その立地も上野や日本橋、銀座など「東」に集中。「三越」「伊勢丹」がようやく新宿に進出し覇を競い始めたが、その頃、渋谷に「デパート」は存在しなかった。

阪急を範とした関東初の「ターミナルデパート」が生まれる。

デパート開業に先立ち、慶太が師と仰ぐ阪急・小林一三に依頼し、大阪・梅田駅にある日本初のターミナルデパート「阪急百貨店」に社員を派遣。ゼロからデパート経営のイロハを学ばせた後、1934(昭和9)年11月1日に渋谷駅に地上7階、延べ床面積11,750平方メートルの広さを誇る、関東初の本格的ターミナルデパート「東横百貨店(東横店東館)」を開業する。建築設計は、銀座「服部時計店(現、和光)」を手掛けた渡辺仁が担当。アールデコやバウハウスなどヨーロッパ建築の影響を強く受けたモダンな「白亜の建物」は、東横線ターミナル駅のシンボルとなる。

開業当時の東横百貨店と東横線 渋谷駅(撮影1934年11月) 画像提供=東急

郊外に帰る沿線居住者の利便性を考えて、営業時間は夜9時までの年中無休。今日のコンビニやスーパーと変わらないサービスを展開する。開業月の売上高は13万970円。ちなみに同月の日本橋三越は380万円、上野松坂屋は296万円で、老舗デパートにはまだ遠く及ばないものだった。「帰らぬ主人を待つ忠犬」として一躍有名になった「ハチ公」の銅像が渋谷駅改札口に設置されたのも、ちょうどこの年である。

3、4階に銀座線渋谷駅を内包する「西館」と大騒動。

東横線に続き、渋谷のターミナル化に大きな役割を果たすのが「地下鉄」である。東京地下鉄道が日本初の地下鉄を開通したのは1927(昭和2)年、上野と浅草・雷門の間である。それから徐々に線路を伸ばし、1934(昭和9)年に新橋まで全通。これに刺激を受けた慶太らは、「山手線の内側と郊外をつなぐ」ために地下鉄・東京高速鉄道をつくる。1938(昭和13)年12月20日には渋谷・虎ノ門間の地下鉄を開通し、「玉電ビル(現、東横店西館の4階以下)」3、4階を銀座線渋谷駅として使用開始。「スリバチ地形」の最も低い立地にある渋谷駅は、隣駅との標高差が18メートルもあり、地下鉄ながら3、4階にホームがあるという珍しい構造を持つ。さらに翌年6月1日、玉電ビル2階に玉電渋谷駅をつくり、建物から電車が飛び出す、今日の「東横店西館」の原型が完成する。

東京高速鉄道と宮益坂(撮影1938年5月) 画像提供=東急

その後、地下鉄事業は「渋谷から銀座、浅草方面へ乗り入れたい」東京高速鉄道の慶太と、「それを完全拒否する」東京地下鉄道の創業者・早川徳次との間でし烈な対立が勃発する事態へ。慶太は「敵対的買収」に強引に踏み切るが、最終的には政府が両社を仲裁。国が出資して「帝都高速度交通営団」(現、東京メトロ)を設立し、1941(昭和16)年9月1日に営団地下鉄として業務を始める。今日、渋谷・浅草間の直通運転が行われている背景には、東京の地下鉄をめぐる主導権争いがあった。

戦後復興は「映画」「ひばり号」などの娯楽から。

40年代に入ると、戦争の足音が徐々に近づいてくる。物資不足・商品減少、軍関係会社などへの「売場供出」が相次ぎ、売場はどんどん縮小していく。戦況が日増しに悪化する1945(昭和20)年5月25日の夜、代々木や渋谷一帯に焼夷(しょうい)弾が降り注ぎ、白亜の建物は猛火に包まれて1階を除き全焼する。

空襲を受けて燃えさかる東横百貨店(撮影1945年5月) 画像提供=東急

終戦から1カ月後の9月18日、空襲被害を受けた建物1階を売場として復旧。翌年1月には、戦災を被った百貨店3、4階を映画館・劇場に改装し、1フロアに4~5軒の小屋が入る貸しスペースを設けた。食べるもの着るものがない時代、「映画」は市民にとっての唯一の娯楽だった。

戦争の傷跡は深く、本格的に活気を取り戻し始めたのは、50年代に入ってから。戦後、GHQ(連合軍司令部)から公職追放の指定を受けていた慶太も、1951(昭和26)年8月6日に追放を解除される。戦後復興を象徴する渋谷の光景としてよく知られているのが、子ども向けの遊覧ケーブルカー「ひばり号」である。

東横百貨店(旧東横店東館)と玉電ビル(現東横店西館)を結ぶ空中カーブルカ―「ひばり号」(撮影1952年1月15日) 画像提供=東急(株)、 撮影=赤石定次

同年8月25日、山手線をまたいで東横百貨店(東横店東館)と、当時4階建てだった玉電ビル(現、西館)の屋上を往復する遊具として設置。周囲に高層ビルがない時代、三軒茶屋あたりまで見渡せるパノラマビューが人気を博し、乗車待ちの行列が途切れないほど。1953(昭和28)年、4階建ての玉電ビル(西館)の増築が決定し、惜しまれつつひばり号は撤去される。稼働期間はわずか2年余りだったが、渋谷の戦後復興を語る上で外せないトピックといえる。

五島慶太と坂倉準三とが構想する「渋谷のまちづくり」。

もう一つ、その後の百貨店業界に大きな影響を与えるアイデアが、戦後の東横店から生まれている。1951(昭和26)年10月27日、東横百貨店(東館)1階に開業した「東横のれん街」である。「日本橋や銀座に行かずとも、渋谷で名店・老舗で買い物はできる」という画期的な発想だったが、自社店舗での商売にこだわる老舗からは「前代未聞」と門前払い。デパート営業担当者らは、オーナーを口説き落とすまでにかなり時間を要したが、開業後は「本店よりも売れる」という老舗も多く、かつてない食品街は大成功を収める。この「渋谷発祥」の新しい販売スタイルは、その後の「東急フードショー」、さらに今日の「デパ地下」人気へとつながる。

東急会館増改築工事の様子と都電(撮影 1954年6月24日) 画像提供=東急
東横百貨店新館完成(撮影 1954年11月17日) 画像提供=東急

1954(昭和29)年11月17日には、4階建ての玉電ビルを増築し、11階建ての「東急会館(現、東横店西館)」を完成。建築設計したのは、ル・コルビュジェの弟子である建築家・坂倉準三。

渋谷駅直上にあった「東急ホール」  画像提供=東急

9~11階には1002席規模の「東横ホール」を併設し、歌舞伎や落語から、芝居、ロックコンサートなどにも使える「万能劇場」が駅直上に誕生。当初はクラシックコンサートも計画されていたが、3・4階の銀座線の騒音と振動から頓挫したという。中でも1985(昭和60)年の劇場閉鎖まで、30年以上も続いた「東横落語会」は、ホール落語のはしりとして人気を博す。今日、渋谷にはBunkamuraや東急シアターオーブ、パルコ劇場など、文化発信を担う劇場が集積しているが、その原点が「東横ホール」だったといえる。東急会館の開業で、東横百貨店の売場は25,637平方メートルから39,870平方メートルに増大し、当時としては巨大な売場面積を持つターミナルデパートになる。

文化の殿堂「東急文化会館」 提供=東急

その後、慶太と準三は「渋谷総合計画」を構想し、東急文化会館(1956−2003)を手掛けるなど、1964(昭和39)年の東京五輪前までに「渋谷駅周辺の街」の骨格を形成。ちなみに慶太は五輪を見ることなく、1959(昭和34)年8月14日に77歳で亡くなる。

「東急」と「西武」の競争が若者文化を生む。

五輪後、「いざなぎ景気」の波に乗って1967(昭和42)年11月1日、旧大向小学校の跡地に「東急百貨店本店」を開店、1970(昭和45)年には東急百貨店東横店西館隣に「南館」を増築し、街の発展と歩調を合わせて本店、東急東横店(東館・西館・南館)とその規模を拡大。それと時を同じくして、1968(昭和43)年に宇田川の映画館跡地に「西武百貨店渋谷店」が進出。1973(昭和48)年には、区役所通り(現、公園通り)の中腹辺りに「渋谷パルコ」が開業し、渋谷の街では「東急グループ」と「西武・セゾングループ」の開発競争が始まる。「Bunkamura VS パルコ劇場(旧、西武劇場)」「東急ハンズ VS シブヤ西武ロフト館」など、この火花を散らす競争が、「ファッション」「音楽」「映画」などのカルチャー発信地・渋谷としての印象を高め、「若者文化の街」へと変貌するきっかけとなった。

若者文化を発信した公園通り

90年代に入るとバブルが崩壊し、経済不況の到来で大資本による大規模開発は停滞。その一方、神南やキャットストリートなど、「メインストリート」ではない「裏通り」で、小さいながらもセンスある雑貨やセレクトショップが台頭。「メインストリート」→「裏通り」、「大型商業施設(大資本)」→「ショップ(個人オーナー)」、「歌謡曲」→「インディーズ」、「ディスコ」→「クラブ」へと一気にトレンドが変わり、「渋谷系音楽」「コギャル文化」など、10代、20代を中心とした「渋谷発のストリートカルチャー」が花開く。

100年に一度の再開発で東横店も終わりを迎える。

「低年齢化した渋谷の街」が再び動き始めたのは、京王井の頭線・渋谷駅と一体化する「渋谷マークシティ」が開業した2000(平成12)年から。慶太と準三が構想した渋谷ターミナルも半世紀以上を経て、「老朽化」「バリアフリーの未整備」など、あちこちにほころびが出始める。キャパシティを超えている交通インフラの整備を核として、東横店を含む渋谷駅全体の見直しが計画。100年に一度の渋谷駅周辺の再開発の始まりである。

東横線渋谷駅 最終列車発車(撮影2013年3月16日) 画像提供=東急

その第一歩が、東急東横線の地下化である。地下化工事に伴い、2003(平成15)年に東急文化会館を閉館。2012(平成24)年にその跡地に30代の女性をメインターゲットとした「渋谷ヒカリエ」が開業し、その翌年に地下5階に東横線・渋谷駅ホームを移動すると共に副都心線との相互直通運転が開始する。続いて、東横店東館、東横線渋谷駅のかまぼこ屋根の地上駅舎・高架橋を解体し、その跡地には2018(平成30)年に「渋谷ストリーム」、2019(令和元)年に約230mの高さを誇る「渋谷スクランブルスクエア東棟」がそれぞれ開業し、商業施設とオフィスが一体化する複合施設が生まれている。特にオフィスには、90年代後半から渋谷で勃興し始めたIT企業などが集積し、「若者の街」から「IT企業の街」「働く街」へと新たな変化を見せ始めている。

渋谷ヒカリエ(2012年4月開業)と渋谷スクランブルスクエア東棟(2019年11月開業)

渋谷駅周辺の再開発完了は2027年度、あと7年先まで続く。今年2020年1月3日に東京メトロ銀座線渋谷駅が東横店西館から約130メートル表参道方面に移動し、明治通り直上に新設。今夏の五輪開催前までにはJR埼京線ホームも、山手線と並列するかたちで移設予定である。さらに3月31日で営業を終了する東横店西館(東急フードショーは除く)が建っていた場所には、将来的に「渋谷スクランブルスクエア中央棟・西棟」が誕生する。85年の歴史を持つ東横店はまもなく緞帳(どんちょう)を下ろすが、東横ターミナルデパートが紡いできた物語に終わりはない。東横店の始まりは「郊外に向け日用品を売る店」、老舗ではないからこそ失敗を恐れることなく新しいことに挑戦してくることができた。再開発後の渋谷にも、チャレンジャーとしての遺伝子は脈々と継承されていくことだろう。