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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

1947年東京生まれ。1971年、伝説のフォーク・グループ“THE NEW FRONTIERS”のメンバーとして渡米。西海岸を中心にコンサート活動を行い、和楽器を取り入れたフォークロック・グループとして注目を浴びる。“EAST”と改名し、米国キャピトルレコード社よりアルバム「EAST」発売。全米デビューを果たす。帰国後シンガーソングライターとしてアルバムデビューし、同時にスタジオ・ミュージシャン、アレンジャー・プロデューサーとしての活動を開始。アコースティックギター第一人者として、中島みゆき・松任谷由実・福山雅治・夏川りみなどニューミュージック系のアーティストを中心に数多くのレコーディングやコンサートに参加。近年では、福山雅治「Golden Oldies」、夏川りみ「南風」、「岡本おさみアコースティックパーティーwith吉川忠英」などのアルバム・プロデュースでも高い評価を得ている。

映画「ハチ公物語」で田村高廣さんが演じた古川駅長のモデルとなった実在の渋谷駅長を祖父に持つ吉川忠英さん。プロデビューの場所でもあった渋谷で間もなく開催される「第3回渋谷音楽祭」でフラッグアーティストを務める吉川さんにお話しをうかがいました。

祖父はハチ公の時代の渋谷駅長。だから、ものすごく縁がある

--そもそも渋谷との出合いは?

昭和初期、僕の祖父である吉川忠一は、当時の鉄道省勤務だったのかな、渋谷の駅長をしていたんですよ。ちょうどその頃に、飼い主だった上野博士の見送りにいつも忠犬ハチ公が来ているという話があって、上野博士が病気で亡くなった後も、毎日ハチ公が迎えに来ているということが新聞に載り、全国からハチ公のために、お金や物がいっぱい送られてきた…というくらいに話題になった。そして、忠犬ハチ公の銅像ができたという時の渋谷の駅長です。以前、「ハチ公物語」として映画にもなりましたが、田村高廣さんが演じた駅長、それが僕のおじいちゃんだったんです。そんな祖父とハチ公が一緒に写った写真を、この間渋谷駅前の写真展で見つけて、とても嬉しかった。だから、渋谷とは、ものすごく縁があるわけですね。

--実際に渋谷にはじめて来たのは、いつ頃でしたか?

昭和30年ぐらい、小学生の頃だったと思います。当時は荻窪に住んでいましたが、僕の家は祖父母ともとても厳しい家庭だったので、なかなか一家で外食するチャンスなどなかったのですが、ある正月に父親が、「今日は家族で、寿司、食いに行こう」って。当時、寿司なんか、なかなか食べに行く機会がなかった時に、家族で渋谷に来たんです。今で言う109の辺りだと思いますが、とても感動したこと覚えていますね、寿司の味とともに(笑)。それが最初の渋谷との出会いです。その後、大学2年まで、キャンパスの日吉に通っていたので、いつも東横線で渋谷を通っていました。友人みんなで集まる時は渋谷とか自由が丘とかで、たむろしていましたよ。

--渋谷に若い人が多い点はどのようにご覧になっていますか。

若い人、僕、好きなんです。音楽にかかわる若い人はみんなすごく仲がいいし、とても楽しくやっているんですけど、ギャル?は、ちょっとついていけないかも知れないなぁ(笑)。音楽をしている若い人とは付き合いがあります。20代の青少年たちって、結構好きですね。

--渋谷のライブハウスとの接点は?

かつてあった渋谷ジァンジァン。プロになって、THE NEW FRONTIERSというグループを再結成して、最初に出演したのがジァンジァン。1970年のことでした。そのほか、近年では、eggman、O-WEST、O-EAST、クアトロにも出たことがありますね。TAKE OFF 7は見に行っただけかな。ライブハウスの色は、その店のマスターの個性が出るから、地域によっての違いはちょっと言えないかもしれませんが、中央線沿線・高円寺とかはフォーク系で、六本木になると、ちょっと大人なライブハウスに。都心に行くほど、ちょっとおしゃれな感じになっていますね。

1970年にプロ宣言、渋谷ジャンジャンがファーストステージ。やはり縁があります

--今、リアルな音楽イベントが逆に価値が高まっているという風に言われますが。

もう、本当にそうですね。僕も7、8年、ギターを持って旅していると、そこでどんどん自分が成長してくるし、成長させてもらっている気がします。それでまた成長したものを持って帰って来ると、「去年からまた変わりましたね」って言われる。だから、お客さんによって、こっちが育てられているところがあるじゃないですか。1年、ぐるっと回って帰ってきた時に、また同じことをやっていたら、嫌がられちゃうね、3年目には来てくれない(笑)。ライブハウスや音楽イベントは、それだけ自分が切磋琢磨する場所でもあるんです。お客さんは本当に、もうすごくシビアですね。逆に頑張れば頑張ったほど返してくれる。

--プロデビューのきっかけは?

ギターとの出合いは高校2年の時。編入試験で転校して、「さあ勉強しよう」と思っていたのですが、そうしたらどこからともなくギターの音が聞こえてきて…。そこで瀬戸龍介と知り合ってアメリカンフォークソングやギターやバンジョーを教わったりしたんです。69年に大学卒業なんですけど、あの頃、フォークソングで食べていける人は、なかなかいなかった。マイク眞木さんの「バラが咲いた」が売れた頃かな。当時は、全然生活ができると思ってなかったので、とりあえず、みんな就職しよう、「趣味にしような」って言って別れたんですが、別れて1カ月もたたないうちに集まりだして(笑)…。会社が終わっちゃ、夜な夜な集まって練習を始めたんです。そうしたら、その夏ごろには米軍のキャンプの仕事を見つけてきて、週末とかに出演していました。メンバーは英語がうまかったので、英語で司会したりジョークを言ったり…。そうすると、メインのショー扱いにしてくれるんですよね、前座じゃなくて。で、結構いいギャラがもらえました。当時、初任給が2万8000円のころに、1回ステージをやると200ドルだから7万円くらいもらえるわけでしょう。ちょっと、食ってけるかも知れないと(笑)。それで、みんなの触手が動いて「やるか」みたいな話になって…それで、また再結成しちゃったんです。僕はその年の12月いっぱいで生命保険会社を辞めました。しかも、ボーナスをもらってから(笑)。瀬戸龍介は大手レコード会社に勤めていましたが、翌年3月いっぱいで辞め、森田玄は大学院に行っていて教授からアメリカに招かれたらしいんですけど、それを断って辞めちゃったんです。それで70年にプロ宣言して、渋谷のジァンジァンがファーストステージになりました。やはり縁がありますね。

--最近の吉川さん自身の音楽の方向性というのは?

僕はずっとアコースティックギターなので、そのアコースティックギターが生きる音楽しかできません。一時は、ちょっとコンピューターを使って打ち込みやって、ちょっと変わったアレンジもしたいなと思ったのでやったことがありますが、やはり、戻ってくるのはここですね。温かい、言葉が伝わる音楽を作りたい。だから、歌詞はどうでもいい音楽じゃなくて、ちゃんと詩を大事にして、言葉が伝わる音楽が一番。編成が少ない方が詩が入ってくるんですよね。僕はアコギストとして、1人でもバンド編成のように聞こえてくるっていう音楽がやりたいんです。目に見えない「インビジブルサウンド」が聞こえてくるとか、誰もいないんだけど、何かドラムが聞こえてくるみたいな…「太鼓、鳴ってねえか?」みたいな、そんな「インビジブルサウンド」が、僕の理想です。目に見えない楽器が聞こえてくるような、それをワンマンバンドで。

YAMAHA「アコースティックマインド」でのライブの様子

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