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★「青い部屋チャンネル」で
映画『はじまりの記憶』紹介★

前回の「青い部屋チャンネル」で紹介しました「はじまりの記憶」を紹介しております。いつも紹介コーナーが最期の方で、大分酔っぱらってしまっていて、ろれつが廻っておりません。。。笑 済みません。

http://sugimoto-movie.com/ (公式サイトにコメント書いております)
映像ではちょっと酔っぱらいすぎて謎な解説になっておりますが(笑)、、、私が言いたかったことは、ますは美術家と鑑賞者(批評家)が二項対立の別の次元のものであったり、美術家だけが表現者で、作品を発信し続けるものではないということです。
美術家自身は自己批評的に自己言及的に責任を持って作品を作るべきで、時には自身の作品の一番の批評家、分析眼を兼ね備えるべきなのです。
一方、鑑賞者や批評家はただそこから作者のメッセージや作品の意図を一方向的に受け身として受け止めるのではなく、そこから独自の見方やオリジナルの鑑賞方法を取るべきなのです。
ですから美術家こそが批評家的になり、鑑賞者こそが創造的になるべきなのです。
そこで美術家と鑑賞者というそれぞれの立場は、時には入れ替わり立場が逆転することもあるのです。現代美術においては双方は同じ意味合いになるのです。
この杉本博司さんという美術家は自身が美術家でもあり、自身の作品の一番の理解者、分析家、優れたキュレーターでもあるのです。
そしてこの映画のさらに面白いところは、劇中杉本博司さんという美術家を紹介して描いている訳なのですが、実は私たちが見ているものは「杉本さん」や「彼の作品」ではなく、中村佑子監督の「映像作品」そのものなのです。
杉本博司さんはその方法論や作品や美術展の成立において意識的に展開しております。ですからひとつひとつの作品のレベルはもちろん素晴らしいのですが、そ こには彼の世界観の醍醐味はありません。そこにはない背後にある意図や意思を汲み取ることが杉本作品の鑑賞態度なのです。
ですから、この「はじまりの記憶」こそ、映りこんでいる対象物(杉本博司さん自身や作品)について語られるのではなく、中村佑子監督の手法や方法論こそを話題にすべきなのです。
映像の中で、中村監督の言葉を寺島しのぶさんがナレーションとして話されております。
しかし映画中盤で杉本さんと「離人症」についての話題になった時に、思わず中村監督の「それは一体いつからですか?」という言葉が入り込んでしまっている。
そこが、このドキュメンタリーの要で、そのいつから離人症的な傾向にあるのか、、、、そのテーマがこの映画全体を最期まで牽引していくことになるのです。
その監督の中で芽生えた発芽の様な瞬間に立ち合う事。映画全体に重力を与えるきっかけ。に気付くこと。そしてそこからどのように映画を作っていったか、、、
この「はじまりの記憶」はけっして杉本さんの映画ではなく、まぎれもなく中村監督のドキュメンタリー作品なのである。。。
その点で見るとこの映画は中村監督と広大な杉本大陸を度をするロードムーヴィーであり、彼女の成長物語とも読み取れるのです。
ただ今イメージフォーラムで上映中!!!!!!
http://www.youtube.com/watch?v=pWTuYNzrLjk

ヴィヴィアン佐藤(非建築家)

非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。

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