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★ 映画『神々のたそがれ』トークショウ★

映画『神々のたそがれ』トークショー第三弾!
http://www.ivc-tokyo.co.jp/kamigami/

4月17日(金)19:00の回上映後、飴屋法水さん(現代美術家・演出家・劇作家)、ヴィヴィアン佐藤(美術家)のトークショーをユーロスペースで開催。※整理券は朝10:30より発行 。

 左)ヴィヴィアン佐藤 右)飴屋法水


製作期間15年、原作ストルガツキー兄弟(『ストーカー』)。巨匠アレクセイ・ゲルマンの不朽の遺作、ついに公開。


≪ 傑作の概念を遥かに超えた途方もない作品 ≫
これを見ずに映画など語ってはならない。傑作の概念を遥かに超えたこの途方もない作品を前に、久方ぶりにそう断言しうる僥倖を、彼岸のゲルマン監督に感謝しよう。
蓮實重彦(映画評論家)

≪度し難い「人間」の愚行への深刻な問いの映像≫
「神」は退位し、リヴァイアサンは到着していない。さながらラブレー、ボッシュが幻視した〈生〉だけの光景だ。汚辱、痴愚、殺掠の社会をみかねて、八百年 後からの観察者は、神を騙り統治をこころみるがジェノサイド(燔祭)に到る。アレクセイ・ゲルマンの、度し難い「人間」の愚行への深刻な問いの映像にあな たは三時間、眼をそむけることもできずに、金縛りにあうだろう。
磯崎 新(建築家)

≪これはたんに見るだけの映画ではない≫
ルネサンスの期待は中世への退行によって裏切られ、解放は抑圧、知は狂信、富は貧困、平和は暴力を生む。歴史の悪循環をそのように俯瞰することすら ここでは不可能だ。際限のない泥と糞の海を横切りつつ、視界が限られた中で、すべてに触れ、嗅ぎ、舐め、吐き捨てるほかはない。そして、言葉というより 声、音楽というより音に耳を澄ますこと。これは、たんに見るべき映画ではなく、そうやって全感覚で体験すべき映画なのだ――ラブレーやブリューゲルの世界 に身体ごと放り込まれたかのように。
浅田 彰(批評家)

≪ゲルマンはダンテの神曲を凌駕した≫
この作品をダンテの「地獄篇」にたとえた人もいるが、神が途方もない大殺戮をはじめる終末で、ゲルマンはダンテの神曲を凌駕したと思った。「神でいることはつらい」の認識まではダンテは達しなかった。 立花隆(評論家・ジャーナリスト) ≪ 画面の向こうの出来事ではない ≫ むせ返るような臭気。視界をさえぎる障害物。中世のような建築の実在感。確かに、この世界を触ることができる。だが、反知性主義への退化は、画面の向こうの出来事ではない。
五十嵐太郎(建築評論家)

≪「ここ」ではない「どこか」のオクターヴ異なる世界へ≫
冒頭、どこからともなく聞こえてくるオクターヴをまたぐ少女の歌声。それは、「ここ」と非常によく似ているが、けっして「ここ」ではない「どこか」のオクターヴ異なる世界へと導いていく。ルネサンスの遠近法が成り立たない近視眼的視座。
ヴィヴィアン佐藤(美術家)

≪汚泥と殺戮の蛮人オリンピックが今、開幕!≫
久々に登場したSF映画の名作。宇宙船もタイムマシンも出てこない、汚泥と殺戮の蛮人オリンピックが今、開幕!かつてギュネイは『路』で獄中から シャバの映画を撮ったが、ゲルマンは死後の世界から現世についての破壊的傑作を撮ってみせた。即、金メダル授与内定!!死んだもん勝ち!!
中原昌也(ミュージシャン・作家)

≪こんなのもはやフィクションじゃない≫
恐ろしいほどに海馬を揺るがす、笑えるほどのデジャビュ。洗いたてのハンカチがないと帰ってこれない。こんなのもはやフィクションじゃない。神様、アレクセイ・ゲルマンが作ったこの装置は、とっても危険です。 やくしまるえつこ(音楽家) ≪ 非常に才能ある人間 ≫ そう言えば、最近映画界に非常に才能ある人間が現れたよ。レニングラードのアレクセイ・ゲルマンだ。
アンドレイ・タルコフスキー(映画監督 過去の発言より

≪アレクセイ・ゲルマンに比べれば、タランティーノはただのディズニー映画だ≫
不寛容、狂信、言語に絶する残虐からなるこの地獄において、観客はわれ関せずの態度を取ることなどできない。他人事であるかのような、この“物語” があなた個人には関係がないかのような態度を取ることはできないのだ。そうではなく、この映画はまさしくわれわれのことを描いているのである。われわれに 起こるかもしれないこと、あるいはすでに起こってしまってさえいることを。
ウンベルト・エーコ(哲学者、小説家)

≪この作品は強烈な竜巻のごとく、全ての映画を粉砕する威力がある≫
『神々のたそがれ』は強烈なインパクトを与える自然現象であり、過去に撮られた作品全てを粉砕するだけの威力を持っている。映画作品とは竜巻と同じ く自然現象なのだ。竜巻は悪だとする考えもあるだろう。しかし竜巻無しの自然はありえない。竜巻は自然の不可欠の一部なのだ。今後、この作品を抜きにして 映画とは何かを知ることはできない。
ユーリー・ノルシュテイン(映画監督)

ヴィヴィアン佐藤(非建築家)

非建築家、アーティスト、ドラァククイーン、イラストレーター、文筆家、パーティイスト、、、と様々な顔を持つ。独自の哲学と美意識で東京を乗りこなす。その分裂的・断片的言動は東京では整合性を獲得している。。。なんちゃって。

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