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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

アコースティックギタリスト。2002年メジャーデビュー、同年10月全米メジャーデビューを果たす。オープンチューニングやタッピング奏法を駆使した、独特のギターアレンジやパーカッシブで迫力ある演奏と繊細であたたかい音色が共存するステージが、世代を超えて多くの人々に支持される。毎年7月にスイスで開催されている「モントルージャズフェスティバル」に2002年から3年連続出演するなど、海外での評価も高い。ソロアーティストとして全国ツアーなどのライブ活動を中心に、映画音楽、番組テーマ曲、CM音楽などの作曲も手掛ける。ジャンルを超えたコラボレーションも話題で、自身のプロデュースイベント「GUITAR PARADISE」を毎年開催するなど、幅広いスタンスで活躍する。2011年1月12日にオリジナルアルバム「Hand to Hand」が発売予定。

30歳を過ぎてメジャーデビューを果たし、地元大阪をベースに、アコースティックギター1本で世界へと進出した、日本を代表するアコースティックギタリスト、押尾コータローさん。学生時代の多感な一時期を渋谷区で過ごし、ライブハウス出演を夢見ていたアマチュア時代の話から、2度目の出演となる渋谷音楽祭への思い入れ、そしてアコースティックギターの秘める更なる可能性について語ってもらった。

『クラブ・クアトロ』『渋谷C.C.レモンホール』に憧れていました。

--大阪で高校を卒業後、東京で音楽専門学校に通われていたそうですね?

かれこれ14年前になります。1996年頃、千駄ケ谷へ引っ越して暮らし始めました。今はもう無くなってしまったんですが、パン・スクール・オブ・ミュージック(編注:2010年3月閉校)に通うにあたり、親と相談して、学校に近い場所を選びました。千駄ケ谷は、ちょっと歩けば大都会なのに、近所にはお風呂屋さんがあって、お肉屋さんがある。下町の良さを残しつつ、最先端の空間につながっている、そんな印象を持ちました。

--渋谷や原宿へ足を運びながら、刺激を受けたことは?

そうですね、常に『最先端』という雰囲気がありました。雑誌を広げると必ず特集されている街というか、雑誌の中の世界がそのままリアルに動いているのが渋谷、という感じ。僕もよく洋服を買ったりしていました。渋谷で特に印象に残っているのは『ジァンジァン』というライブハウスですね。昔からある、どちらかといえば音楽よりも独り芝居やパフォーマンスをやるスペースなんですが、発想の自由があって、色々なアーティストが表現できる場でした。僕も、ヴォーカル&キーボードとベースとギターとドラムという編成のバンドで1度だけライブ出演したことがありました。

--学生時代、アマチュア時代に渋谷の他のライブハウスで出演したことは?

『クラブ・クアトロ』は憧れの的でしたね… たとえ対バンだとしても「あそこに出た」という事実が、ある種のステイタスでしたし。でもその前に『エッグマン』でライブが出来たらなぁ…とか思っていました。そして、渋谷には『渋谷公会堂(現・C.C.レモンホール)』が頂点にあって、もう本当に夢のホールでした。

--ちなみに、ストリートライブの経験は?

いや、実は僕は無いんです。一度だけ、大阪の梅田でやろうとしたことがあったんですが、アコースティックギターの生音って街頭では全然聞こえなくてね。通りすがりのサラリーマンの方が「ビートルズ弾いて」っていうからがんばって弾いたけど「聞こえへん!」「もっと耳元で〜」みたいな状態で…。弾き語りならばギターの音が小さくても声でカバーできるんですが、インストではキツかった。それでPAを通してやろうとしたけれど、当時すでに30歳を超えていたから、「やっぱ冬場は寒いしきついなあ…」となっちゃって(笑)。それで、場所だけ借りてやろうと思って、喫茶店に相談してライブを始めました。大阪は東京ほどライブハウスが無いから、やらせてもらえる場所も少ないんですよ。だから喫茶店やカフェで「ライブやらせてください!」ってお願いして「うちは機材がないから」って言われても、「全部用意します!」という感じで、とにかくやらせてくれる場所は、ありがたかったです。お店側も喜んでくれましたしね。

--プライベートで東京へ来る時、渋谷で足を運ぶ場所は?

僕は食べるのが好きだから、渋谷にもよく行くお店はあります。渋谷マークシティ近くにある『Thank Nature Cafe(サンクスネイチャーカフェ)』です。女性に人気のある自然食のお店なんですけれど、偶然見つけて入って、ハーブティの種類がたくさんあったので注文したんです。そしたら「えっ、こんなに美味しいの?」と感動してしまうほどの味で。それで料理も食べてみたくなって夜に行くうちに店長さんとも仲良くなりました。ちなみに名字が同じ「押尾」なんですよ。東京に来たら、今もよく行きますよ。それと時々、CDや映画DVDを買いに渋谷駅前のTSUTAYAにも立ち寄ってます。

メジャーデビューを諦めかけた頃、肩の力が抜けた、いい音楽を演奏できるようになった。

--それでは押尾さんの音楽についてお聞かせください。そもそもの音楽活動の始まりは?

自分にとって衝撃的な楽器との出会いは、中学のブラスバンドでしたね。部活動の新入生歓迎会で先輩が吹いているのを見て、「トランペットをやりたい!」と思い入部しました。でも体が大きかったから、バスチューバの担当になってしまい、とても残念でしたねえ(笑)。ブラスバンドはマーチを演奏するから、バスチューバはどの曲も四分音符と四分休符しかなくて、「ボン・ボ・ボン・ボ」だけ。他の楽器と合わせるまでどんな曲かさっぱり分からないから、個人練習が淋しくて…、でもちゃんと3年間続けましたけどね。ギターに出会ったのは、部活の休憩時間でした。ある先輩が歌本を広げながらフォークギター片手に、確かイルカの『なごり雪』だったはずですが、弾き語りしているのを見て、ひとりで完結できる楽器だし「カッコいいなあ」と。そして中2に上がった時、友達がギターを教室に持ってきて、ケースから出して松山千春さんの曲を「ジャラーン」て弾きはじめたら、女の子に囲まれてキャーキャー言われて、それを横目に「えっ、あんなにモテるのか、ギターって」と思いっきり下心が動いて。そこからですよ、ギターに走ったのは。ブラスバンドの練習は学校で、家に帰ってからギターを弾いていました。でもバスチューバはバスチューバの、ギターにはギターの、それぞれの良さは感じていました。

--バンド活動は高校生の頃から?

そうですね、エレキギターに憧れて、親にお願いして買ってもらったんです。当時はヘヴィメタル・ブームで、ラウドネスとかキッスとか流行っていたんですけど。僕は入り口がフォーク・ミュージックだったから、バンドサウンドと言ってもTHE ALFFEや浜田省吾、甲斐バンドが好きで、ヘヴィメタル系の音楽にはどうもついていけなくて。周りからは「ちゃうねん、何でそれやねん?」なんて突っ込まれながらも、演奏していました。フォークソングクラブのメンバーだったんですが、ボーカルやエレキギターは既にやりたいやつがいて、結局、僕はベース担当に回されてしまったんですが(笑)。「押尾、お前は器用だからベースやれ」って、訳の分からない理由をつけられてね。

--そして一本のフォークギターと運命的な出会いを果たした。

そうです、オレゴン州ポートランドの『グレーベン』製のアコースティックギター。僕は高校生の頃、敬愛するギターインストゥルメンタル奏者の中川イサトさんの教室に通っていたんですが、その頃イサトさんが使っていたギターの1つがグレーベンだったんです。当時、僕には手の届かないギターだと分かっていたのですが、ある時イサトさんが「中古で売っているけど、見てみるか?」と言って来てくれて。5万円くらいで買えるのだろうと勝手に想像してお店へ行って値段を聞いたら「25万円」と言われてしまい…。でも、僕にとってアイドル的な存在だった中川イサトさんが紹介してくれた中古ギターだったので、どうしても断りたくなかった。そこで母親に「お願い!」と必死に頼み込んで…、「もう少し安いギターにしなさい」と説得されるかと思ったら、僕の想いが通じたのか「じゃあ、買っといで!」と言ってくれて。それがあったから今がある、という気がします。結局30歳までそのギター1本でやってました。

--中川イサトさんとの出会いを通してインストゥルメンタルに目覚めたのですか?

はい。でも、まだその頃はインストゥルメンタル一本でやっていく勇気が無かった。インストの良さも十分知っていたのですが、ひとりでやるのは怖いという思いがあったから。ステージをやるにはそれなりの曲数が必要だし、バンドだと頼れるメンバーが横にいるし、音圧のある音楽の方がカッコいいと思っていました。だから何となく、バンドの方がやりやすい気がしていたんです。今から考えれば、遠回りをしていたんですね。

--当時、インストのどこに魅かれていたのですが?

歌が無いというスタイルが良かったんです。それまでずっと歌ものを聞いていましたが、その間奏に入るギターソロを「格好いいなあ」と思って聞いている自分がいて、ソロがもっと長ければいいのに、という意識がいつもありました。

--音楽を職業にして生きていこうと決意したきっかけはありましたか?

音楽だけで生活できなかった頃は、バイトで警備員とか中華料理屋さんの出前とか、色々な仕事をしていました。でも、アルバイト中に包丁を使うとか、出前中にバイクでこけたりして手にケガをしたりする度に「もう辞めたい」って思っていましたね。音楽以外の仕事で、ケガしてギターが弾けなくなるのは辛かったんですよ。そんな経験が積み重なっていくうちに「音楽の仕事なら何でもやる」と思うようになりました。ミュージシャンって「自分たちの音楽しかやりたくない」という人が多いじゃないですか。僕もバンドやっていた頃は同じようなことを考えていましたけどね。それが、演歌でもジャズでもゲーム音楽でも、何でもやりたいし、楽しい。そう捉えられるように変化していました。「とにかく音楽でお金を稼ぎたい」という気持ちが強かった。20代後半の頃です。ただ、大阪は東京と比べそれほど音楽の仕事は多くないですからね。そんな中、ブラスバンドの編曲の仕事をもらったんです。知り合いに「アレンジできるか?」といわれて、バスチューバの演奏しかやったことなかったですが、「できません」といえばそれで終わってしまうので、「できます、やります!」て言って。その後、慌てて本屋さんへ走って「ブラスバンドアレンジ法」という本を買いました(笑)。とにかく断りたくなかったので、着ぐるみを着て演奏したり、ちんどん屋さんの仕事もしたことがありましたよ。でも音楽の仕事をすること自体が本当に楽しかった。

--そして30歳を過ぎてようやくデビュー。

20代後半にはメジャーデビューを諦めかけていたんですが、不思議とその頃から肩の力が抜けた、自分らしい音楽を演奏できるようになってね。誰かと一緒にやるにも、サポートをお願いするにも、「タダでやってくれ」とは言いにくい年齢になっていたし、バンドよりも一人のほうが気楽でいいと気づいて。でも一人でやりはじめたら、次第に応援してくれる人が増えて、CDを制作して、ラジオ局(FM802)の人気DJ・ヒロ寺平さんが僕のオリジナル曲をかけてくれたり…、それがメジャーデビューのきっかけになりました。バンドの頃は「チケットを売らなければ」というプレッシャーが強かったのですが、一人の場合はライブハウスを埋めるのは不可能と思っていたから、チケットノルマ制の無い喫茶店などで演奏していたんです。そして「どうやったらたくさん来てくれるか?」と試行錯誤しているうちに、だんだんお客さんが増えてくれたんですよね。

ニューアルバム「Hand to Hand」(2011年1月12日発売予定)の制作が続く都内スタジオにて

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