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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

渋谷は皆の「やりたいこと」を許容する街 それがカオス的な文化を生み出している

数多くの一流デザイナーを輩出してきた桑沢デザイン研究所の卒業生で、現在は同校の副所長を務める市瀬昌昭さん。40年以上にわたって渋谷を見つめてきた市瀬さんに、デザイナーならではの視点から、街の変遷や今後の渋谷に望むことを語っていただきました。

渋谷の魅力を突き詰めて考えると、文化の本質が分かる

--市瀬さんと渋谷との出会いを教えてください。

渋谷とは桑沢デザイン研究所の学生になった頃からの付き合いだから、もう40年以上になります。そもそも渋谷って明治時代には小説の舞台になるような土地だったんですよね。国木田独歩は今のNHKのあたりの農村で書生として2年間を過ごし、そこで『武蔵野』を書いた。田山花袋は、独歩を訪ねたときのことを書き残していて、独歩の家の近所に川が流れていて「水車のそばの土橋を渡って」という描写がある。その脇に茶畑や大根畑があり、近くでは牛が草をはんでいたりするんです。それから唱歌の『春の小川』のモデルも代々木上原あたりの宇田川の支流でしょ。今では考えられない夢の光景ですよね。それらは本で読んだ知識ですが、僕が学生だった頃と比べても、渋谷はものすごく変わりましたよ。当時のセンター街には学ランを着た大学空手部の連中が闊歩し、夜10時を過ぎたら一般の人がいなくなって、物々しい雰囲気でしたね。

--その後はどんな変遷を遂げてきたのでしょうか。

しだいにバンカラの風潮が薄れると、センター街を中心にコンパを受け入れる態勢が整い、完全に学生街になりました。僕が桑沢デザイン研究所の講師になった35年くらい前にはセンター街に「七色カウンター」と呼ばれる大きなバーがあって、よく学生を連れて飲みに行っていましたね。そうこうするうちに街にオヤジが増えてきて、風俗店の呼び込みなんかも目立つようになった。僕らは「客引きに声をかけられたらオヤジだぞ」なんて言いながら歩いていましたね(笑)。ところが、しだいに渋谷が情報発信源のように捉えられ始めるとオヤジの姿が見られなくなり、若者であふれ返るようになった。10年前くらいに読んだ椎名誠のエッセイには「いよいよ渋谷駅から2キロ圏内には入れなくなった」なんて書いてありましたよ(笑)。

--桑沢デザイン研究所が渋谷にあるのは何か理由があるのでしょうか。

渋谷にあるということ自体に大きな意味がありますね。僕は一年生の最初の授業では、「渋谷がどういう街なのか、しっかり理解しろ」と伝え、街をスケッチさせます。渋谷は不思議な街ですよ。マスコミでは「情報発信源」と「うるさくて汚い」という相反するイメージが同時に発信されていますよね。負のイメージが強いにも関わらず、若者を中心にたくさんの人が集まってくる。その理由を見つけるために街を歩かせるのです。でも最初は、何も見つけられない。ごちゃごちゃといろいろなものをスケッチするけど、本質的なものは描かれていません。それでも街を歩くうちに考えが集約されて、人の動きや、通りや店の形などを見出せるようになります。でも僕は、渋谷の魅力はそれだけじゃないと思う。そこを理解できれば、きっと文化の本質が分かるのでしょう。おそらく答えは一つではない。文化って、そういうものだと思うのです。

それから、桑沢の卒業生は2万人以上いて、もちろん中には名を馳せたデザイナーもいるのですが、事務所はほとんどこの近辺なんですよ。代官山から青山通り、上原・・・みんな歩いて行ける範囲にいます。「お前たちはいつまでも桑沢から離れられないんだな」と、よく言ってます(笑)。名刺に渋谷区、港区という住所があるだけで信用度が全然違うそうなんですね。

--市瀬さんは渋谷の文化はどのようなものだと考えていますか。

学生には、「裏原(裏原宿)のキャットストリートに行ってみろ」とよく話します。キャットストリートにはデザイナーの手がけたものがたくさんあって、センター街とは異なる光景が広がっている。歩いている人の雰囲気や格好も全く違う。さらに表参道や青山通りに足を延ばすと、これまたガラリと風景が変わる。例えば、道玄坂、センター街、公園通り、宮益坂などは誰も計画しないでポツポツできてきた。それでいいんですよ。全体をまとめてああしよう、こうしようとしてこなかったのが良かった。それぞれに特徴があり、物語があるはず、そこを人が回遊して各自で楽しめるのがいい。こんなに狭いエリアに様相が全く異なるストリートが集まる街は世界中のどこを探しても存在しません。これは渋谷に文化が混在することの表れに他ならないと私は思っています。

--センター街などに見られる若者文化は、どのようにご覧になりますか。

ヤマンバと呼ばれる女性の出現は面白い現象ですよね。3年ほど前のパリコレで、渋谷のヤマンバがモチーフにされたことがあった。パリのファッション界は常にモチーフを求めていて、しばしばアフリカや東南アジアなどの民俗衣装が選ばれます。民俗衣装は、たとえば信仰心などによって色彩や模様が規定される。ところがヤマンバは何者にも縛られずに本能の赴くままに表現しています。僕らだって本能で生きたいとは思うけど、秩序や理性によって制限されているじゃないですか。その点、どうして彼女らがそうなったのかは分かりませんが、とにかく、手に入るもののなかで完全に自由な格好をしている。そして、それを渋谷が許容したということだと思います。

子どもたちが何を考えているかを捉え、「夢」を表現する場所を造ってほしい

--市瀬さんはどのように渋谷の魅力を感じていますか。

やはり文化が混在するカオス的なところに魅力を感じますね。ヨーロッパを旅すると、歴史ある街並みが整備されていて美しいけど、個人的には面白いと思えない。計画的に造られているためカオスが存在せず、「遊びがないなぁ」と感じるのです。ヨーロッパからの留学生が渋谷を訪れると、「ファンタスティックな街だ!」と目を輝かせますよ。そういう魅力が渋谷にあるのは、皆が個々にやりたいことをやって、全体的な計画で統制されていないからだと思います。文化というのはキレイ事ではないから、上からの計画によって作り出すことはできない。本来、必要なものは自然発生的に現れるものです。たとえばセンター街に歯医者はあると思いますか? 実はいくつもあるんですよ。目立たないかもしれませんが、虫歯が痛くなって必要に迫られると、ちゃんと発見できる(笑)。センター街のように一軒一軒が集まって活気を帯び、色々な方向性を持つと、街が動き出す。そして、過去にバンカラが姿を消したように必要のないものはいなくなる。そういう「自浄作用」が生きた街にはあると思います。

--昔の渋谷を懐かしむ気持ちはありますか。

そうですね。東京って本来は「東洋のベニス」と言われるほどの「水の都」なんですよ。東大の藤森教授が東京は川を伝って一周できると言って、実践したことがあった。今ではほとんどが暗渠だけど、本当に一周できたそうです。やっぱり、そういう光景を取り戻したいなという気持ちはありますね。それでも鍋島藩のお膝元だった渋谷には、歴史ある見どころも残っていますよね。円山町の芸者文化も完全になくなったわけではありませんし。東京でここはという料理処を芸能人なんかが紹介すると、住所が渋谷だったりする。「そんな店、あったかな」と思うほど目立たない存在になってしまいましたが、昔からの文化は今でも息づいていると思います。

--今後、渋谷には、どのような変化を望みますか。

僕は個人的には「道玄坂」は渋谷を代表する名称だと思っています。だから商店街にも頑張ってもらって、もっと活性化させてほしい。そこに文化的なものを求める人が増えれば自浄作用によって風俗店や暴力団は姿を消していくはずです。道玄坂には桜があって、何年か前までは商店街の人たちが花見をしていた。それを見ると、「いいな」と思うんですよね。カフェよりも桜の下で飲んだ方が楽しいという気持ちが僕らには刷り込まれていると思うのです。そういう気持ちを大事にしてオープンカフェを誘致しても面白いかもしれませんね。もっとも、カフェは一休みする場所だから、買物でも観劇でもいいから、魅力的な「目的地」を道玄坂に作る必要もあるでしょう。僕が渋谷からプラネタリウムがなくなったのを非常に残念に思ったのは、それが「夢」を表現した施設だったからです。モノを作るときには夢を語り共有することが必要で、やはりソロバン勘定だけでは人は集まりません。子どもたちが何を考えているのかを捉えて、今の時代に合った夢を表現する場所を作ってほしいとも思います。

--デザインの分野で今後のビジョンを語っていただけますか。

デザインというと色や形をイメージしますが、それは“センス”であって、デザインはもっと根本的な営みです。どうすれば生活が豊かになるか、気持ちよく過ごせるか、といったことをみんなで考えて提案するのがデザインで、その過程で色や形が生み出されるに過ぎません。桑沢デザイン研究所は戦後の復興期の昭和29年、新しい時代の生活をデザインするために生まれました。今では物質面では「生活」は豊かになりましたから、これからは「生命」を豊かにするためのデザインを考える必要があると思っています。例えば値段の安いものでも、その所有者に大切に扱って長持ちさせたいという気持ちが生まれれば、結果的にゴミは少なくなる。そのように私たちの生活を多角的に見つめ直したデザインを提案していきたいと考えています。

■プロフィール
市瀬昌昭さん
1968年、専門学校桑沢デザイン研究所卒業。同年、株式会社デザインシステムに入社し、建築家、清家清氏に師事、住宅建築を多数設計する。1973年、桑沢デザイン研究所に講師として入所。1979年、同研究所助教授。1991年、同教授。1996年、同所長。2005年、任期満了により所長を退任。現在、桑沢デザイン研究所副所長兼教授。

桑沢デザイン研究所 桑沢デザイン研究所 昭和29年に設立。現在は、昼間部に総合デザイン科を、夜間部にデザイン専攻科を設置し、ファッションやインテリア、グラフィック、プロダクトなど、多分野にデザイナーを輩出している。昭和41年には東京造形大学を開校。
住所:東京都渋谷区神南1-4-17
TEL:03-3463-2431

桑沢デザイン研究所

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