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今昔写真から振り返る「あの日の渋谷」vol.5
テーマ:「オリンピック国民運動」

「あの日の渋谷」は、「昔」と「今」の渋谷の写真からまちの歴史を振り返るフォトギャラリー。「昔の写真」を改めて見直してみると、当時の渋谷の街並みや、人びとの暮らし、ファッションなど、様々な変遷が今日の渋谷に繋がっていることがよく分かる。この企画では「昔」と「今」の渋谷の写真を見比べながら、懐かしい渋谷のまちの歩みを振り返ると共に、昔の写真の中から「新しい発見」や「気づき」を見つけていきたいと思う。第5回目となる今回は「1964東京五輪」開催を控え、「美しい国土」「公衆道徳の向上」を目指した「オリンピック国民運動」の風景に注目してみたいと思う。

日本政府観光局(JNTO)によれば、2018年の訪日外客数は前年比8.7%増の3,119万人。JNTOが統計を取り始めてから過去最多を数え、2020年の東京五輪に向けて日本の文化などに関心を抱く外国人が増えていることがうかがえる。彼らが日本にやって来て、最初に驚くのが、「どこに行っても街がきれいなこと」だそうだ。ポイ捨てが少なく、日本人のモラルの高さを賞賛する声はとても多い。サッカーW杯などの試合後、スタジアム内のゴミを拾う日本人サポーターの姿が度々ニュースになっているが、外国人からすれば、とても信じ難い光景なのだろう。

では日本人は昔から「公衆マナー」が良かったのだろうか?

1964年の東京五輪の以前、東京はものすごく汚くて臭い街だったと言われている。終戦から20年余り、国民のほとんどが生きるのに精一杯で、公衆道徳を考える余裕すらない時代。家庭ごみは路上に放置されて臭気を放ち、そこら中に痰(たん)や唾を吐き捨て、人目をはばからず大人が平気で立ち小便をする姿も日常的な風景だった。今ではとても信じられないことだが、ひと昔前の日本を知る世代からすれば、「あーそんな時代があった」ときっと思い当たるはずだ。

ただ、これでは「もはや戦後ではない」と高らかに宣言し、「アジア初の五輪開催で国際社会の仲間入りを果たそう!」という国としては、あまりにも恥ずかしすぎる。そこで五輪開催地である東京都では1962年から毎月10日を「首都美化デー」と定め、町内の清掃や緑化など「首都美化運動」をスタートさせる。「ゴミ容器」として現在当たり前に使われているポリバケツも、この美化運動の波に乗って普及した商品の一つ。視察に来たニューヨーク市清掃局長からの助言を受け、蓋付きのポリバケツ「ポリペール(商品名)」を積水化学が提案した。積水化学のウェブサイトによれば、「多くの自治体や日頃から家庭のゴミ処理に困っていた主婦層の心をつかんで、ポリペールは空前の大ヒット商品となり、各メディアからは“清掃革命”と賞賛された」という。急速な都市化でゴミが溢れた東京を救った、まさにプロジェクトX的な発明品だったことがうかがえる。

<参考記事>
 積水化学サイト街のゴミ問題を解決 プラスチック製ゴミ容器 ポリペール

▲オリンピック美化運動(1964年撮影) 写真提供=渋谷区郷土写真保存会

さて前置きが長くなったが、今回ピックアップした写真は、1964年の五輪直前に渋谷駅前で開催された「首都美化運動」の様子を撮影した1枚だ。「美しい国土でオリンピックを成功させよう オリンピック国民運動推進連盟」と書かれたプラカードを持つご婦人の肩には、「東京都新生活運動協会」というタスキが掛かっている。「東京都新生活運動協会」は現在の「公益財団法人あしたの日本を創る協会」で、くらしや健康など都民の身近な生活課題を解決するために1957年に結成された。五輪に向け海外から来訪客を迎えるべく、公衆道徳の向上を目指した「首都美化運動」では、中心的な役割を担っていたそうだ。

プラカードを持つご婦人の周りには、同じ年代のご婦人たちが集まっている。この日、渋谷駅周辺で美化運動を行うため、きっと駅前に集合しているのだろう。ヘアスタイルやファッションからも時代がうかがえる。特に手前のご婦人(お母さん)と一緒に参加しているワカメちゃん感が漂うおかっぱの女の子たちは、三姉妹だろうか。可愛らしいワンピースなどのよそいき姿。子どもの既製服が高く、まだそう普及していない時代を考えると、きっとお母さんの手作りかもしれない。

62年にスタートした美化運動も、五輪開催年になると「みんなの手で東京をきれいに」というスローガンのもとで町会や婦人会、小中学生など都民総ぐるみの大規模な運動へと拡大。特に現在の代々木公園(旧ワシントンハイツ)に選手村や代々木競技場などを持つ渋谷区では、他地域よりも運動が盛んだったようだ。

さて撮影場所は、どこだろうか。写真の右上をよく見てみえると、「河童洞」という大衆食堂の右隣から「橋」のようなものが真っ直ぐ伸びているのが分かる。建設工事中の「首都高速」だ。「3号渋谷線」が開通したのは、五輪開幕の僅か9日間前。五輪に向け、かなり厳しい工期の中で突貫工事が行われていた。ちょうど工事も佳境を迎えていた頃だろう。首都高速が見える位置から推察すると、撮影したのは現在の渋谷駅西口付近だろう。

▲2017年10月9日撮影(撮影者=佐藤豊)

現在の写真と見比べてみよう。現在の写真の背景には「東急東横店南館」(1970年増築)が写っているが、その当時は「東急東横店南館」も、その向かいの「東急プラザ渋谷」(1965−2015)もまだなく、駅前は見通しの良いスペースが広がっていた。
古い写真ではご婦人たちの右後方あたりに、タクシーかバスを待つ人びとの列らしきものが出来ている。同じく現在の写真でも後方にバスロータリーが見え、この辺りは今も昔も街の風景が大きくは変わっていないことが分かる。

さて今日、世界から絶賛される日本人の美化意識は、前回大会時に都民総ぐるみで実施された「首都美化運動」の賜物といえるだろう。もちろん日本人の心のなかには、人に喜んでもらいたいという「おもてなしの心」がもともと宿っていたのだろうが、五輪の成功に伴い、その意識がより一層高まったのは間違いなさそうだ。

毎回、掲載写真を提供協力して頂いている、当時を知るカメラマンの佐藤豊さんによれば、前回の五輪をきっかけに東京から川がどんどん消えて行き、渋谷においても同様に川が消えたという。当時区内では下水道の完備が整っておらず、渋谷の川にも生活排水が流れ込み、暑くなると悪臭を漂わせてハエや蚊の発生場所となっていた。保健衛生面から川に蓋(ふた)をする要望が近隣住民から多く寄せられ、川が消えていったのだそうだ。近年、川が消えた事をネガティブに言う人も少なくないが、佐藤さんによれば「当時、日常生活を送る中では切実な問題だった」と振り返る。半世紀の時を超え、下水道施設が整って来た事により、昨年秋には渋谷ストリームに隣接する渋谷川の一部に清流を流す計画が完成した。「昔の川とは違いエンターテイメント性の強い、見せる川となっているが、今後は渋谷の歴史文化を伝えるような川の復活も望みたい」と求めた。

2020年の五輪開催が迫る今、私たちは前回大会時の取り組みから少なからず学ぶべきことがあるのかもしれない。

<バックナンバー>
「あの日の渋谷」Vo.1テーマ:「代々木競技場」(2017年11月21日掲載)
「あの日の渋谷」Vo.2テーマ:「原宿駅」(2017年12月28日掲載)
「あの日の渋谷」Vo.3テーマ:「渋谷駅ハチ公前広場」(2018年2月14日掲載)
「あの日の渋谷」Vo.4テーマ:「完成間近の首都高速3号渋谷線」(2018年7月12日掲載)

編集部・フジイタカシ

渋谷の記録係。渋谷のカルチャー情報のほか、旬のニュースや話題、日々感じる事を書き綴っていきます。

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