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KEY PERSON キーパーソンが語る渋谷の未来

渋谷を中心に活躍する【キーパーソン】のロングインタビュー。彼らの言葉を通じて「渋谷の魅力」を発信します。

プロフィール

1953年渋谷生まれ。弱冠17才でデビュー、天才ギタリストの出現と騒がれる。今田勝、渡辺貞夫、鈴木勲など国内ジャズシーンのトップ・グループに在籍し、70年代末の「イエロー・マジック・オーケストラ」のワールドツアーに参加、その名は一躍世界的なものに。80年代には大ヒット・アルバム 「トチカ」 をはじめ、フュージョン史上に残る伝説的作品を発表。21世紀に入りクラシック、コンテンポラリー、ジャズ、ロック、民族音楽などを自在に行き来するボーダレスなギタリストとしての可能性を披露。クラシックギターの金字塔「アランフェス協奏曲」全楽章のピック弾きによるオーケストラとの共演は、オール・ジャンルにおける前人未踏の挑戦として注目された。現在、NHK国際放送「J-melo」の準レギュラーをはじめ、メディアでも活躍中。洗足学園大学ジャズコース客員教授。

デビューから40年を数え、ますます精力的に国際的に活動を続けるジャズギタリストの渡辺香津美さん。名実ともに日本が世界に誇るトップ・ジャズ・ギタリストとして常に斬新な旋律を創造し、同時に広く音楽文化の普及に力を注いでいる。渋谷駅東口で生まれ育ったという渡辺さんの脳裏に焼き付いた渋谷の風景から、音楽との出会い、そして出演間近の第6回渋谷音楽祭への想いを語ってもらった。

渋谷駅周辺を駆け回って遊んだ幼少時代

--渡辺さんは渋谷駅東口にご実家があったそうですね。

タバコ屋の祖母の前で弟と挨拶する渡辺さん(画面右)

だいぶ昔の話ですが、実家が東口駅前にあって商売をやっていました。宮益坂下交差点です。隣が東映系の映画館でした。今はビッグカメラになって、映画館は上の階に移りましたよね。明治通りを挟んで斜向かいに東急文化会館があり、そこにもいくつかの映画館と、五島プラネタリウムがありました。交差点の小さなたばこ屋さんが僕の実家、親戚のおばさんがやっている美容室が隣にあって、中華料理屋さんもありましたね。現在はテナント向けビルに改築しています。僕は17歳くらいまでそこで暮らし、渋谷で音楽と出会うことになったわけですが。

--地元の小学校に通われていたのですか?

公園通りにある山手教会の敷地内にあった山手幼稚園に通っていました。プロテスタント系だったはずです。小学校からは千代田区九段にある私立の暁星学園へ。渋谷から都電に乗って通学していました。路面電車に揺られて、何だか越境するような気分でしたね。

--少年時代の思い出はありますか?

デパートが遊び場でしたね。なにせ渋谷駅の東急百貨店東横店が目の前でしたから。当時の渋谷はすでに交通量が多くて、小さい頃は自転車を禁止されていたので、東横のデパートで遊ぶか宮下公園で遊ぶか、でした。デパート中を回ったり、子供向けの催しを見に行ったり。映画もよく観に行きました。まわりが映画館だらけで、株主ではないのですが無料優待券をいっぱいもらえたので(笑)。東京オリンピックの時には、聖火ランナーが家の前を走るのを2階から眺めた記憶があります。

道玄坂の楽器店でギターの腕を磨く

--渡辺さんと音楽の出会いは?

ピアノを習っていた小学5年生頃の渡辺さん

小学校2年生くらいからオルガンやピアノの稽古をはじめました。父親はチャップリンの映画音楽やルイ・アームストロング、ラテン音楽などが好きで、父のステレオから流れてきた音楽に合わせてピアノを弾いたりしていました。でも、全く練習しなかったですよ(笑)。好き勝手に鍵盤を叩いていました。多分そのころからアドリブで弾く方が好きだったんですかね。ピアノの蓋を開けてフエルトに画びょうを差して(変な音をさせて)、先生にめちゃくちゃ怒られたことも…。

--ギタリストとしての原点は?

僕が小学校6年生だった1966年に道玄坂にヤマハミュージックができたんです。エレキギターもエレクトーンも弾き放題で、ほとんど毎日通っていました。その頃ベンチャーズというギターバンドが流行していたんですが、彼らが使っていた「モズライト」という、「エレキギターのロールスロイス」と呼ばれる超高級ギターがショーケースの中に飾られていて。毎日それを眺めていたら、ある日売り場の人が「これはすごいギターなんだよ、弾きたいか?」って中から出して、弾かせてくれたんですよ。別のギターとは「全然違う」と感じて、これで人生が決まった感じでしたね。「こんなギターを自由に扱って音が出せる人になりたいな」って。

--でもどうしてギターだったのですか?楽器は他にもいろいろありますが。

小学校6年生になる頃にはギターに傾倒

もちろんベンチャーズ来日の影響もありましたが、クレージー・キャッツの「シャボン玉ホリデー」が当時テレビで人気でしたし、近所の映画館では加山雄三さんの「エレキの若大将」や、植木等さんの「無責任男シリーズ」が次々封切られ、常に音楽が僕の頭の中をぐるぐると回っていました。特に加山雄三さんを見て「ギター=格好いい」と決定づけられましたね。そんな時代だったんです。

--バンド活動をはじめたのは?

隣で伯母がやっていた美容室が休日のとき、場所を借りてギターの練習をさせてもらっていました。親戚や友達を集めて。そのうち、どうやら自分が一番うまいことに気づいて(笑)。それを励みに密かに特訓を重ねました。中学に入ってからは、音楽仲間とバンドをはじめて、エレキギターを担いで東中野や飯田橋に出かけ練習をしました。ときどき、家の2階の物干し台にアンプを持ち出して、明治通りに向けてジャカジャカ弾いたりもしました。気持ちよかったですよ。

--モト冬樹さんが学校の先輩だとか?音楽的なつながりはあったのですか?

はい。モトさんは昼休みにいきなり教室に現れてバンド演奏を始めるような人で、モトさんのエレキが生で聴くエレキギターの初体験でした。当時の話をすると「オレがきっかけでギターを始めた風に聞こえると格好悪いから、言わない方がいいよ」と謙遜されるのだけど、他では「渡辺香津美はオレを見てエレキを始めたんだ!」と仰っているみたいです(笑)。

--なぜジャズの世界に興味を持ったのですか?

ずっと独学でエレキギターをやっていたのが、一度しっかり習おうと思い、宮益坂のギター教室に通いました。その先生はジャズ、クラシック、ハワイアンまでオールマイティに教えていた方で、「きみは指がよくまわるからジャズをやってみたら」とアドバイスされました。勧められたジョー・パスのレコードでものすごいスピードで早弾きをする演奏法を知って、「これが同じギターの音なのか」と驚きました。60年代末、音楽シーンがフォークからロックやプログレッシブロックへ移行していた時期に、ジャズに出会ったわけです。ジャズはそうした音楽の中でも格段に「訳の分からない」ジャンルでしたね。そうしているうちに、母親が渡辺貞夫さんの家にお邪魔するコネを作ってきてくれて、ギターを持って行ったんです。中学2、3年の時です。「枯葉」「イパネマの娘」を弾きました。渡辺貞夫さんは「子供ながらよく弾けているけれど、しっかり習った方がいい」とアドバイスをくれ、こんどは別のジャズギター教室に通うことになりました。渡辺貞夫さんが主催されていたジャズスクールの一部門で、恵比寿にありました。ここで師匠の中牟礼貞則さんと出会い、本格的にジャズギターをはじめました。

--17歳でデビューされていますが、その経緯は?

実家のすぐそばのジャズクラブで師匠が週に一度演奏していて、よく聴きに行っていたのですが、ギター教室を卒業するあたりから、ステージを解放するジャムセッションに参加するようになりました。そこで「面白い高校生がいる」と噂になっていたようです。ジャズクラブは渋谷にたくさんあって、私にとっては大きな存在でした。東急プラザ近くの「オスカー」をはじめ、円山町のラブホテル街にも多かったです。よくギターをもってジャズクラブへ押し掛けて「やらせてください!」って頼みこんで、半ば嫌がられながら演奏させてもらって(笑)。ヤマハ、河合など楽器屋さんも豊富にあって、渋谷は昔から音楽文化が盛んでしたね。デビュー前の自分にとっては貴重なフィールドでした。

やがて師匠が出演していたクラブから、高校生だった自分もバンド編成で出演する機会をもらえるようになりました。他のバンドのオーディションに誘われる機会も増えて、ある時、ジャズピアニストの今田勝さんに声をかけてもらいました。楽屋でちょっと弾くだけかと思い会いに行ったのですが、そのままステージに上がるよう言われて・・・ガチガチに緊張しましたよ。終わって片づけをしていると「お疲れさま」と声をかけられ、ギャラをもらったんです。確か3〜4,000円くらいで、今の物価だと数万円位の価値があると思います。これにはシビレましたね。自分は満足してお客さんは喜んでくれて、さらにお金がもらえる。それ以前もライブはやってはいましたが、このときがプロデビューの瞬間だったと思います。

--当時の渋谷で気に入っていた場所はありましたか?

渡辺さんが通った「山手幼稚園」は山手教会の敷地内にあった。後に教会地下の一部がライブハウス「渋谷ジァンジァン」に

渋谷ジァンジァンには出演者としても観客としてもたびたび足を運びましたし、渋谷クアトロは通好みの外国人アーティストを来日させたりして、好きでしたね。あとは渋谷公会堂。僕にとって大きな存在でした。自分の生まれ育った場所に音楽の殿堂のような場所があるって嬉しいことですよね。隣にはNHKホールもあり、「文化の発信地」という雰囲気が漂っていました。20代に入って一旦渋谷を離れましたが、20代後半になってから再び「渋谷へ飲みに行こう」と誘われる機会が増えてきました。はじめのうちは渋谷とお酒がどうも結びつかなかったんですが、大人になって渋谷という街の魅力を再発見したような気がします。子どもの頃とは全く違うに街に見えましたね。

それから渋谷といえば、Bunkamuraが完成した1989年当時、演劇やフェスティバルなどのプロジェクトを中心に「シアターコクーン」でプロデューサーとして携わっていた串田和美さんに誘われて、僕の発案した企画で、ジプシー出身の世界的ギタリストを元にした音楽劇「ジャンゴ1953」の上演が実現したのはとても嬉しかったですね。自分の生まれ育った街で文化的な活動に携われて、これまでの恩を少し返したような気分になりましたから。

宮益坂下交差点。ビックカメラ左手のビル敷地に、タバコ屋を営んだ渡辺さんの生家があった

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