#シブラバ?渋谷で働く、遊ぶ、暮らす魅力を探る

KEYPERSON

渋谷はよく文化やファッションの発信基地と言われますが
僕にとっては、ここが一番落ち着くホームタウン

株式会社メディコム・トイ代表取締役社長赤司竜彦さん

プロフィール

株式会社メディコム・トイ代表取締役社長。東京都出身。執筆業からIT系ベンチャー企業に転進。1996年(株)メディコム・トイを設立。特撮、アニメ・コミック、映画等のキャラクターフィギュアを企画製造。2000年、自社オリジナルブロックタイプフィギュア「KUBRICK」(キューブリック)、01年にはクマ型ブロックタイプフィギュア「BE@RBRICK」(ベアブリック)を発表。国内外のアーティスト、ブランド、企業とのコラボレーションを多彩に展開している。アパレルやインテリアなど多岐に渡る事業を展開中。

「フェンディ」など世界各国のブランド、企業、アーティストとのユニークなコラボレーションで知られるクマ型ブロックタイプフィギュア「BE@RBRICK」や、極限までリアルに作りこむアクションフィギュア「REAL ACTION HEROES」など、幅広いTOYを世に送り出すメディコム・トイ。幼少期から渋谷で過ごし、今も上原に本社を構える赤司竜彦さんに渋谷へのこだわりをうかがいました。

田舎がない僕にとっては、渋谷が僕の田舎

--赤司さんと渋谷の出会いはいつからですか?

もともと港区で生まれたのですが、幼少期からずっと住んでいたのが渋谷でした。何度か転校もしていますが、最初に入ったのが千駄ヶ谷小学校。そう考えると、(渋谷は)僕のホームタウンなんだなと思います。おもちゃの町というと台東区などがメインなので、問屋さんには、「何で渋谷にあるんですか?」と言われたりします。もしかすると、自分が渋谷をすごく好きだから、ここから動きたくないのかもしれません。親から伝え聞いた記憶では、キディランドが原宿に出来てからは、もうほんとにキディランドが好きで好きで(笑)…。いつも「連れていけ」と言っていたそうです。

--その当時の渋谷の風景は、今とはだいぶ違いましたか?

イメージ的にはほんとに今はとても人が多いし、ものすごくいろいろな文化が入り混じった街だなという気がしているんですが、あの頃はファッションにしてもカルチャーにしても、ほんとにその先端の方たちだけがいたようなイメージがありましたね。今でももちろんおしゃれな街ですが、今ほどいろんなカルチャーが混ざっている印象はありませんでした。当時はむしろ、一つの先鋭的なカルチャーが出てくると、それを受け入れてくれる受け皿として渋谷があったというイメージ。ほんとに渋谷区、港区ですよね。港区がどんどんハイソサエティーな方向に成長していったのに対して、渋谷はすごく雑食的にいろんな文化を取り入れていった…そんなイメージがあります。

--物心ついてからも、渋谷に遊びに行っていましたか。

行きましたねぇ。ほんとに子供の頃からフラフラ行っていました。洋服とか好きだったのもありましたし、映画も見に行きたかったし、もうなくなっちゃいましたけど東急文化会館、あそこのプラネタリウムも大好きでした。映画を見るなら渋谷か新宿だったのですが、新宿は行っちゃ駄目って言われて、じゃあ、渋谷へ行こうと。出来たばっかりのマクドナルドでハンバーガーも食べたりしていました。今思えば、子供の頃は、渋谷はすごく背伸びをするために行く街でした。言い方を変えると、背伸びしても許される街だったなと。今でもきっと、そう思って渋谷に来ている子たちはたくさんいると思います。

--幼少期の記憶みたいなものが、拠点を渋谷にすることに結びついていますか?

渋谷へのこだわりって絶対あるんですよね。例えば、今の本社のビルは渋谷区上原2丁目なんですが、通りの向こう側は目黒区駒場5丁目。渋谷区上原がいいなみたいな…その辺はあったような気がしますね。このビルは、この間お亡くなりになったニコルの松田光弘さんが所有されていたビルだったんです。ただ、通りの反対側だったら買っていなかっただろうなと思います。(渋谷は)すごく自分たちを誇らしく思わせてくれる街だなというのが自分の中にあります。渋谷はよく文化やファッションの発信基地と言われますが、田舎がない僕にとっては、ここが僕の田舎なんだと思います。ここが一番落ち着けます。

ビジネスマン時代、「おもちゃの事業部を作りましょう」と直訴

--メディコム・トイを立ち上げた経緯は?

私はもともとコンピューターの会社にいて、コンピューターの仕事なんかやったこともないのに、プログラマーとクライアントの間に立って通訳のような動きをする、プロデューサーのような仕事をしていました。その時、数少ない余暇の中で、アメリカのおもちゃなんかが面白いんじゃないかと、ファイヤー通りにあった「ザップ」という店に知人に連れていってもらいました。こんな文化があるんだなとか、大人がおもちゃを買っていいんだなと思って、その時からですよね。そこから暫くは、ザップさんにはものすごく貢ぎました(笑)。大人がおもちゃを買ってもいいんだ、大人がおもちゃで楽しんでもいいんだということをザップさんに教わりました。もともと学者肌というか研究肌なので、買い集めるに従って自分だったらここをこうしないでこうやるのになとか、もっとこうやったほうが格好いいんじゃないかなとか…そういうことをずっと考え始めて、自分で作ればいいんじゃないかと思ったんですね。そこで、コンピューター会社にいながら当時の社長に、「おもちゃの事業部を作りましょう」って直訴しました。

--社長に直訴?

最初は「何言っているんだ、お前」って言われました。一度は挫折するんですが、性懲りもなく、だったら会社に迷惑を掛けないので、アメリカのインポートのおもちゃ屋さんをやらせてくれという話をしました、僕個人で。ついては金を貸してくれって、訳の分かんないことを言いまして(笑)…。それで当時、恵比寿に畳3畳分の広さの店を開きました。「フリップフロップ」という店です。これが始まりでしたね。当時、アメリカのおもちゃばかり扱っている店は、ザップとフリップフロップと、あともう1、2軒ぐらいしかなかった。その当時、おもちゃが欲しいという子たちのネットワークがちょっとずつ出来上がりつつありました。まだ、ネットも何もない環境の時代のことです。その頃出入りしていた子たちが、今のうちの中枢のメンバーになっていたりします。

--それでもまだ二足のわらじ状態ですね。

そうです。しばらく二足のわらじを履いていましたが、社長から「音楽の事業を始めるから、お前手伝え」と言われまして…音楽の仕事はあまりやりたくないなと思ったんです。音楽自体は嫌いではないのですが…じゃあ社長、その代わりに、「前に駄目とおっしゃったおもちゃの事業をやらせてくれませんか、会社にご迷惑をお掛けしませんから」と懇願し、おもちゃの事業部を作ってもらったんです。結果、その時は、コンピューターの仕事をやりつつ、音楽ビジネスのサポートをして、おもちゃの事業部をやりながら、恵比寿でおもちゃ屋をやっているという四足のわらじを履いていました(笑)。ほんと、めちゃくちゃでしたね。そして、1年ほどたった時、社長に呼ばれました。「ほんとはおもちゃの仕事しかしたくないだろう」って。「はい、その通りです」って言ったら、「会社にある在庫とか金型とか、自分で背負う気があるんだったら辞めていい」と言われて…、結果として、分社独立したかたちになりました。もちろん望んではいましたが、起業するぞ、独立するぞ、絶対やるぞというような姿勢ではありませんでした。むしろやむにやまれずという感じでしたね。別にほかの仕事を手抜いているわけじゃないんですよ。ただ、やっぱり情熱と仕事のポテンシャルというのは見えてしまう。「音楽の仕事は一生懸命ちゃんとやってくれているけど、おもちゃの仕事は君、150%のパワーでやっているでしょう」というのは、やっぱり見えるんですね(笑)。

--いよいよ独立ですね。

1996年に独立して今年で12年目、6月過ぎたので13年目に入りました。スタートは5人で、全然失敗する気はしませんでした。もうすでにいろいろなお取引先と仕事を始めていた経緯もありましたし、収支もある程度肌で分かっていたので、5人ぐらいだったらご飯食わせていけるかなみたいなところから始まりました。本社が出来た直後、ちっちゃくてもいいから、とにかくきちんと自分のところの商品を全部見せたいというところから、東急ハンズの前のちょっと脇に入った雑居ビルの2階に、フィギュアショップ「1/6計画」の1号店を四畳半の広さでオープンしました。ただ、1/6計画は成長が早かったですね。そちらで1年やった後、今の東急百貨店本店近くの通りに良い物件を見つけて移りました。

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