#シブラバ?渋谷で働く、遊ぶ、暮らす魅力を探る

KEYPERSON

日本一ヒップな街である渋谷を拠点にして、ヒップホップの本当の魅力や意義を伝えたい

ヒップホップグループ「キングギドラ」MC、リーダーK ダブ シャインさん

プロフィール

K ダブ シャインさん 1968年渋谷区富ヶ谷生まれ。ヒップホップグループ「キングギドラ」のMCおよびリーダー。Atomic Bomb Productions.所属。高校の途中からアメリカに8年間留学。1993年にアメリカ西海岸のオークランドでZEBBRA、DJ オアシスとともにキングギドラを結成。帰国後、1995年にインディーズアルバム「空からの力」を発表し、日本のヒップホップ史上に残る名盤と絶賛される。1997年にはソロアルバム「現在時刻」を発表。2001年には児童虐待を批判したミニアルバム「SAVE THE CHILDREN」が話題となる。その後は、キングギドラとソロの活動に加え、映画「凶気の桜」の音楽監督を担当するなど、活動の幅を広げている。今年6月に、世界に名を馳せる7か国7監督が競作した話題の映画「それでも生きる子供たちへ」の応援ソング「ソンはしないから聞いときな」を限定配信発売し、7月には初の自叙伝「渋谷のドン」も刊行。スペースシャワーTVで放送されている音楽番組「第三会議室」にも出演中。


ヒップホップグループ「キングギドラ」のMCおよびリーダーを務めるK ダブ シャインさん。渋谷で生まれ育ち、2007年7月には自らの半生とともに渋谷の30年史をつづった『渋谷のドン』も出版されました。社会意識の高いメッセージには定評のあるキングギドラを率いるK ダブ シャインさんが見つめる渋谷の魅力や課題とは。

高校生の頃は学校に行かずに渋谷を徘徊していた

--K ダブ シャインさんは、渋谷で生まれ育ったそうですね。

渋谷区富ヶ谷の出身で、幼い頃から親に連れられて渋谷のデパートや映画館に来ていました。昔は東急東横店の屋上に小さな動物園があって、ヤギがいた(笑)。小学校高学年の頃には釣堀りしかなくなりましたけど。その頃は東急百貨店おもちゃ売り場のゲームコーナーが地元の子どもたちの溜まり場で、エポック社のテニスゲームやブロック崩しに夢中でしたね。それから当時の僕らの遊び場といえば、NHK近くの渋谷川が埋め立てられてできた遊歩道。ブランコやジャングルジム、滑り台とか遊具が充実していて、よく遊んでいました(笑)。普通、渋谷といえば、駅前からマルキュウ辺りを見渡す光景を思い浮かべるけど、僕の家は富ヶ谷だったから、神山町あたりから駅方面を向いている裏側の景色が渋谷のイメージ。東急本店あたりまで歩いてくると、「あぁ、渋谷に来たなぁ」と感じていましたね。

--どのような中学時代を過ごしていたのでしょうか。

14歳の頃は、とにかく自堕落だったと思う。今振り返ると、それまでは子どもとして漠然と育ってきたのに、突然、体の成長とか受験とか、大人の要素が入り込んだことで、目に見えないプレッシャーに戸惑っていたのでしょうね。上級生に苛められた時期もあったし。もちろん、そのなかには皆が乗り越えなくてはならない悩みも多かったけど、子どもの頃に病気がちだったこともあって考え込むクセが付いていたんですよ。それで、「自分はこれでいいのか」とか、いつも真剣に悩んでいました。高校に進んでからは学校に行かなくなり、昼間から夜中まで渋谷を徘徊し、仲間の溜まり場で過ごしたり、BMX(自転車)やスケボーで遊んだり。当時のセンター街は、そんなに危険な感じはしませんでしたね。学生が飲み会をやっているイメージで、今のほうがチャラチャラした遊び人風の若者が増えたんじゃないかな。

留学から帰ると、あまりの渋谷の荒廃ぶりに言葉を失った

--その後、留学している間に渋谷は随分、変わったのでは。

そうですね、8年間くらいアメリカで過ごしていましたから。留学先から渋谷に帰った時は、しっくりと来るというか、「自分の戻る場所はここだな」と実感しました。ただ、留学中にセンター街にチーマーがたむろするようになっていて、随分と荒廃していたのには言葉を失いました。耳に入ってくるのも、「友達がドラッグでおちぶれた」「知り合いがけんかに巻き込まれて片目を失明した」とか、ひどい話ばかりで。自分の生まれ育った街がそんな状況になっているのを目の当たりにして、「何かアクションを起こさなければ」と責任感が湧いてきたのは、しばらく渋谷を離れて客観的に見られるようになっていたからなのでしょう。でも、その後は、取締りの強化があったのでしょうね、チーマーがいなくなって、代わりにギャルが台頭した。で、この街では男が軟弱になっていくんですよ(笑)。

--帰国後のキングギドラの活動について話していただけますか。

当時はスチャダラパーとかEAST END×YURIとか、割と軽い感じのヒップホップが流行っていたけど、僕らは「ラップはそんなに線が細いものじゃないだろ」と思っていた。そうした反発もあって、キングギドラを含め、RHYMESTERとかMICROPHONE PAGERなどが一気に活動を活発化したのが、95年くらいから。そういうグループが「とにかく自力でやろうぜ」と、一緒にイベントをやったことで、エネルギーが外にも伝わって、しだいに形になってきた。当時は西麻布とか六本木でのライブが多く、渋谷で活動するのはもう少し経ってからでした。でも昼間はレコードを漁りに毎日のように渋谷に来ていましたよ。やっぱり情報量が多いから。それで、当然、DJも集まり、それを狙ってヒップホップファッションの店もできた。そうやって渋谷にヒップホップの文化が根付いたのではないでしょうかね。

--当時はマイナーだったヒップホップを根付かせるのには苦労もあったのでは。

今では「ラップをやっている」と言っても、「へー、そうなんだ」と普通の会話で終わりますが、当時はものすごく驚かれましたよ。「日本語でラップなんてできるの?」と訊かれることも多くて説得して回った記憶がありますね。でも、あの頃は、ヒップホップをやっている誰もが「これは面白い」「そのうちに目にモノを見せてやる」という感覚で取り組んでいて、集中力や闘争心があったから、とにかく楽しかった。もちろん、今のほうが認知されていて、やりやすいことは事実ですけどね。

K ダブ シャインさんが所属する「Atomic Bomb Productions.」のロゴマーク

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